コロナ禍ということもあり、
「かかりつけ医に相談しましょう」
というフレーズをよく耳に(目に)するが、
そもそも、高齢か持病がある方以外で、
「かかりつけ医」がいる人は、
どれぐらいいるのだろう。
自分に関していえば、
体調不良で病院にいくことは、
せいぜい2~3年に一回ぐらいで、
それを「かかりつけ」と呼べるかといえば、
やはり違う。
また、緑内障予備軍のため、
半年ごとに眼科に通ってはいるが、
さすがに眼科で、
「コロナかも…」という相談はできない。
要するに、
「かかりつけ医」という概念が、
僕にはイマイチしっくりきていないわけです。
でも、ここで書きたいのは、
別にそんなことじゃないw
僕が興味を持っているのは、
「かかりつけ医」
という言葉自体の問題で、
それについて、
あれこれ考えたことを書いてみたい。
「かかりつけ医」を分解すると、
「かかりつけ」+「医」となるわけだが、
「かかりつけ」というのは、
「かかりつける」という動詞の、
「連用形」が名詞化したもので、
「混み具合」「掛け金」「走り方」「切り貼り」
などと同様、
「連用形で名詞化した動詞」+「名詞」
の形で、二語をあわせて、
「合成名詞」とでも呼ぶべきものとなっている。
(「切り貼り」は、「貼り」も連用形の名詞化)
さて、本題はここから。
まず、「かかりつける」というのは、
そもそも奇妙な動詞で、
ほぼ100%、
「かかりつけ医」「かかりつけの病院」
の形で用いられ、
単独の動詞としてはお目にかからない。
(しかも、病院・医者関連以外での、
「かかりつけ」の使用例を知らない。)
『広辞苑』(第三版。古い!)を引いてみても、
「かかりつけ(掛付)」という形でしか載っておらず、
確かに「医者にかかる」とはいうが、
「医者にかかりつける」とは言わない。
あとそういえば、
「病気にかかる」と「医者にかかる」とでは、
意味が違うのに、
両方とも「かかる」という動詞を使うのも、
面白い。
そんなことを考えているうちに、
次に、「つける」の補助動詞的な用法について、
気になり始めた。
というのも、「かかりつける」は、
「かかる」+「つける」なわけであるが、
同様に、「動詞+つける」という形で、
「つける」が補助動詞的に機能している語が、
いくつかあるではないか。
「打ちつける」「叩きつける」
「投げつける」「叱りつける」
「買いつける」「売りつける」
は、
動詞部分の程度の激しさを強調、
「巻きつける」
は、
「物理的に付着する」の意味を残すことで、
動詞部分と合わせて全体の行為を強調、
「駆けつける」「乗りつける」
「呼びつける」
は、
目的への移動のさまを強調、
他にも「焚きつける」などもあり、
どうやら「つける」に補助動詞的な用法があることは、
ほぼ間違いなさそうだ。
ただ気になるのは、
上記の例はすべて動詞として用いられるのだが、
前に書いたように、
「かかりつける」に関しては、
動詞としては、ほぼ使われない。
これはなぜなんだ…
・・・・・・・・・・
・・・・・
と考えていたところ、
もしかしたら、
「かかりつけ(掛付)」というのは、
「うけつけ(受付)」と同類の、
もはや「完成された名詞」なのではないか?
と思い始めた。
「受付」の方は、
動詞(「受け付ける」)としての形も残っているけれど、
「掛付」については、
おそらく元々は動詞(「掛かり付ける」)としても使用されていたが、
現在では専ら名詞としてのみ、
使わているということではなかろうか。
そこで、疑問は2つ。
その1。
では古い文献などで、
「掛かり付ける」という例があるかどうか。
その2。
「受け付ける」の「付ける」は、
補助動詞の「付ける」とは、
何となく違う気がする。
上で挙げた補助動詞の例と、
直感的に異なる気がするのだ。
では「受け付ける」というときの、
「付ける」はどういう意味なのか。
・・・・・・・・・・
・・・・・
と、ここまで書いて、
何かこの先も、
永遠に疑問がループしそうなので、
続きはまた気が向いたらにしよう。