僕が、人一倍好奇心が強いのだとしたら、
それは澁澤龍彦のせいかもしれない。
それぐらい、少年期の僕は、彼の本を耽読した。
大人になってからも、ちょくちょく読んでいる気がしているが、
このブログを見直してみると、
どうも一冊もアップされていないようなので、
あらためて「高丘親王航海記」を読み直してみた。
澁澤龍彦の数少ない小説のひとつであり、
唯一の長編でもある。
高丘親王は、奈良時代の実在の人物で、
平成上皇の皇子で、将来は天皇になるはずの身であったが、
父上皇が、藤原薬子を寵愛、そそのかされ兵を起こしたため(いわゆる「薬子の変」)、
高丘親王も親王の位をはく奪され、将来は闇となった。
そこで親王がすがったのは、仏教だった。
一心に仏を念じ、かの空海に弟子入り、さらには十大弟子にまでなる。
仏法追求の最終結論として、親王は天竺への求法の旅を決断する。
時に、齢六十七。
まさに人生を賭しての旅だった。
そんな親王の一行が、広州の港を出発するところから、
この小説は始まる。
貴種流離とは、古事記の昔からの、日本文学の重要なエッセンスである。
というよりも、マゼランしかり、マルコ・ポーロしかり、円仁しかり、
古今東西、旅行記というのものは、読む者の心を捉えて離さない。
それが、求法の旅となれば、なおさらのことだ。
フランス文学者であった澁澤龍彦が、文筆人生最期の大作を、
なぜこのような「純日本的」設定にしたのかは、非常に興味深い。
求法の旅、輪廻転生、といった仏教的な世界観が、
晩年の彼の精神に合致したのか。だがそこまでは分からない。
ただ、ところどころに現れる夢幻譚は、まるでアポリネールの短編のようで、
あぁ、やっぱり澁澤龍彦だよね、と納得させてくれる。
それにしても、妖しく哀しい物語だ。
ところどころに顔を出す、薬子の幻影や迦陵頻伽。
古来より鳥を題材にした文学を数知れぬが、
そこに直接的なエロスを感じ取ったのは、この小説が初めてではないか。
この小説には、文学のすべての要素が込められていると思う。
日本文学史上に残る、傑作だろう。
実際の史書によれば、高丘親王は、出発ののち、消息を絶つ。
一説によれば、東南アジアにて虎に喰われたともいう。
この小説も、親王の最期の場面で幕を閉じるのであるが、
そのラストは、壮絶でかつ美しい。
肉体は天竺へ、そして魂はあらたな輪廻転生へ、
再び旅立つのである。