明治から昭和前半にかけての、いわゆる純文学作品は、
十代の頃に随分読んだ。
この「豊饒の海」もそうで、
逆にいえばそれ以来、三島作品なんて全くの無縁だったのだが、
何となくディープな作品が読みたくなったのと、
輪廻転生について少し考えるところがあったので、
外出のたびに古本屋を探し回り、
何とか1冊100円の文庫版で全四巻を揃えて、読破したわけである。
この作品のテーマは、徹底して、
人間の醜さ
と、
認識する(せざるを得ない)ことの地獄
なんだと思う。
登場する人物たちの何とまぁ、醜いことか。
純粋なる美などというものは存在しないということは、
最終巻の「天人五衰」ではもちろんのこと、
一見優雅な美を纏っているかのような、第一巻「春の雪」においても顕著であって、
結局人間というものは、他人から見える表の部分が美であるならば、
その裏には、びっしりと醜さがこびりついていることを、
三島は執拗なまでに描くのである。
そして何といっても、認識することの地獄。
登場する人物は、何をするにも、何を語るにも、
認識という行為を免れることができないでいる。
透徹した認識という行為が、
時に信念に、愛欲に、忠義に、勤勉に、と形を変え、
全人物に共通して、通奏低音のように常に響いているのだ。
考えてみれば、我々は何も考えずに行動しているようなときでも、
常に何かしらを認識しているはずである。
ただ、「認識していることに気付いていない」だけであり、
それを毎回気付くようになってしまっては、生きるのが息苦しくなるだろう。
この作品に登場する人物は皆、
認識していることに気付いているのであり、そこから数々の悲劇が生まれることになる。
このような内面が生み出す悲劇と葛藤については、
三島が薫陶を受けた、ラディゲあたりの作品に特徴的ではあるが、
おそらく日本の文学には無縁であった。
(かろうじて挙げるとすれば、漱石ぐらいだろうか)
そういう意味で、三島というのは非常に近代的な作家といえるわけだが、
今回「豊饒の海」を読み直してみて、
意外にも「源氏物語」と似ているのではないかという気がしてきた。
三島文学と「源氏物語」とは水と油のように思えるけれども、
「源氏物語」もまた、華麗なる王朝文化の内側に潜んだ人間の醜さ、認識することの悲劇、
そして、あたかも輪廻のように受け継がれる光源氏の遺伝子といったものを描いているという点に着目してみると、
「豊饒の海」と「源氏物語」とは非常に共通点が多いのだ。
千年近く隔たった両作品が、共通のDNAを持つことは、
ここにもまた、日本文学史における輪廻転生を見るかのようである。
そういうわけで、この「豊饒の海」は、
一筋縄ではいかない問題を多く孕んでいるのは間違いないだろうし、
具に繙いてみることで、
「源氏物語」以降日本文学が避けて通ってきた、
人間の本質を炙り出すという文学の役割について、あらためて考えざるを得なくなるだろう。