定家から「或る人」へ向けて、
和歌のあるべき姿、そして詠む際の心構え等について書かれたものである。
(よって「毎月抄」とは、定家自身のネーミングではない)

定家のいわゆる和歌の「十体」について述べられているため、
専門家の研究はそちらに偏りがちであるようだが、

僕は専門家ではないので、
和歌という特異な芸はどのように教えられるべきかということが、

超一級の歌人であった定家によって語られた貴重な資料として、
個人的には興味がある。

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さきにしるし申し候ひし十躰をば、
人の趣を見てさづくべきにて候。
器量も器ならぬも、うけたる其躰侍るべし。
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和歌を10の形式に分類した後で、
その人がどの形式に適しているかを見極めて、それを教えるべきだとしている。

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此躰をよめと得ざらん人にをしへ候はん事、
返々道の魔障にて候べし。
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さらに、
この形式を詠みなさいと、まだその形式を習得していない人に教えることは、
学ぶ上での妨げになる、とも言っている。

芸事というのは、常に理想を求めるものであるし、
さらに、教える側は自分が良しとしたものを、弟子にも押し付けてしまいがちである。

定家が言うには、それでは駄目で、
相手の長所を見極めて、それを伸ばすように教えるべきだというのである。

これは、現代でも通用する教育論ではないだろうか。

こんなことを、いまから千年近く前の、伝統世界の王道にいた定家が語っているのは、
彼の、リベラルな歌人としての一面が垣間見れて、とても面白い。

また、終わりの方では、こんなことも言っている。

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或は立ちながら案じ、ふして詠みなど、身を自在にして詠みつけぬれば、
晴の時、法式たがいたるやうに覚えてすべてよまれぬ事にて候。
くせに成りては、詮なき事にてぞ侍るべき。
萬のわざはただしざまのうるわしくてよしと申す事にて候。
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要するに、普段、自由な恰好で詠む癖がついてしまうと、
いざという晴れの場のときに、違和感を感じて詠めなくなってしまうから、
常に正しい姿勢で稽古をすることが肝要だと言っている。

これは楽器でもスポーツでも同じで、
正しいフォームこそが上達の近道なのである。

いつもリラックスして練習をしていると、
いざ緊張感のある場に出ると、うまく演奏できないということは、
自分の経験としてもよくあることである。

ということで、なんらかの芸を学ぼうとしている人にとっては、
なかなか示唆に富んだ著作だと思う。