「日本の伝統」(岡本 太郎)
人間には「言葉」によるタイプと「腕」によるタイプの2通りがある、
と言ったのはガウディだったか。

確かにどの職業においても、
腕がないのにやたらと評論家ぶる人もいれば、
一方、言葉足らずなのに腕をふるわせたら無難に仕事をこなす、
という2タイプがいる。

芸術家というのは、当然ながら後者のタイプなわけだが、
岡本太郎という人は、
珍しく言葉をもった芸術家である。

この本は、縄文土器に芸術的視点でのアプローチを試みただけではなく、
昨今の「琳派ブーム」が起こる50年も前に、

琳派の本質をズバリ突いているなど、
優れた論文集になっている。
(ただ、後半の「庭」についての論評は、
私にはちょっと理解できなかった)

岡本太郎という人は、
そのインパクトの割にはあまり一般的に理解がされていないと思うのだが、

最初に登場したガウディの本質を、
日本人でいち早く見抜き、語ったのも岡本太郎だったし、

なんと言っても、
彼の言葉はシンプルで本質を射抜く力を秘めている。

そう、ここが評論家と違うところで、
評論家というのは自分に腕がないものだから、

重箱の隅をつつく議論や、
持って回った大袈裟な論調に陥りがちになる。

それに対し岡本太郎の言葉は、いつでもシンプルだ。

誤解を恐れずにいえば、「分かりやすい」。

芸術というものを語らなくてはならないとき、
誰しもが多少の緊張と、申し訳なさと、
そして照れ臭さを感ぜずにはいられないだろうけれども、

自らが芸術家である彼には、そんなものは微塵もない。

きわめて堂々と、ストレートに芸術に対して向き合い、
語ることができるのだ。

繰り返すようだが、
それは本来芸術家に与えられた特権なはずなのだけれども、

幸か不幸か、多くの芸術家は「言葉足らず」な場合が多いのであって(ガウディも然り)、
その意味で岡本太郎は貴重な存在なのである。

最後に、彼が光琳の「燕子花図」を見た印象から、
芸術とは何かについて語った部分を引用しよう。


「いずれにせよ、デーモニッシュな緊迫感こそ芸術の内容であり、
装飾の目的をこえて、それは不快でさえある。
しかしそれがまた快以上の戦慄的な快なのです。
複雑なアンビヴァランスです。
ここにたくましい芸術の意味があるのです。」

芸術を、快であり不快であるとし、
そこにこそ芸術の本質があると言い切れる評論家は、
果たしてどれぐらいいることだろう。

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