モノを知ることの楽しみには、
大きく分けて2つある。
1つは、物事の知識を深め、
そのことについてより多くを知り得たとき。
そしてもう1つは、今まで無関係に見えた事柄が、
実はつながっていたというのを知ったとき。
これは、友人との間に、
共通の知人がいることを初めて知ったときの驚きに似ている。
この2つを「ほどほどに」「バランス良く」楽しませてくれるのが、
この本だ。
「歴史」というのは文字で書かれていることを前提にするから、
文字を持つのが遅かった(少なくとも残されていない)我々日本人にとって、
歴史のスタートは、5世紀ごろ、かなり遅い。
だからそれより前は、「歴史」ではなく「考古学」の扱いとなる。
「考古学」の扱いになると何がマズイかといえば、
「歴史」の教科書ではあまり多くを語ってもらえなくなる。
小・中学校時代の「歴史」の時間の記憶を辿ってみると、
特に縄文・弥生時代の説明は頗る偏ったものだったように思う。
縄文人といっても、脳の容量では我々と変わりがないし、
土偶のような優れた芸術も残している。
だからそれなりの文明は持っていたはずなのだが、
なにせ文字で記録が残されていないので、
分かりようがないのである。
この本は、今まで語られてこなった、
例えば「縄文時代の数のかぞえ方」「縄文時代の暦」などについて、
大胆な仮説を提示するが、かといって「トンデモ科学」の類ではなく、
あくまでも科学的に論を進めてゆく。
さて、「歴史」がスタートすると、
今度は文献の研究が中心になるものだから、
どうしても文系的思考でのアプローチが多くなるわけだが、
そこを敢えて理系的な発想で解釈するとどうなるか、
というのがこの本の主題。
ただ残念なのは、章立てに若干の偏りがあったこと。
ちょっとばかり「数」について拘りが強い感があったので、
せっかくならばもっと広い科学のテーマで、
歴史を覗いてみたかった気もする。