谷中をブラブラしていたときに、古本屋で購入した。
僕が生まれる一年前、昭和48年に発刊されている。

UFO、宇宙人、四次元、オーパーツ、古代遺跡、未確認生物、妖怪・・・
幼い頃から「非科学的な」ことがらが大好きで、その手の本もだいぶ読んできた。

常識的な科学の知識を多少なりとも学んだ今でも、このような本がたまに読みたくなるのは、
「あるいはそうかもしれない」「いや、そんなことはない」という、どちらの立場をとるにせよ、
これらが知的好奇心を大いに刺激してくれるからに他ならない。

例えば、地球外生命体についての思い入れ度合いを、次のようにレベル分けしてみると、

レベル4:地球外知的生命体は存在しており、地球に訪れたことがある(あるいは今も訪れている)。
レベル3:地球外知的生命体は存在するが、地球と接触したことはない。
レベル2:知性をもたぬ地球外生命体は存在している。
レベル1:地球外生命体は存在しない。

数年前までの僕は、レベル1~2であったが、今ではレベル3~4になっている。

というのも、科学の力というのはあまりにも偉大で、
きっとそのうちに光速度制限を突破し、恒星系を行き来することができるようになるだろうからだ。

ただ問題なのは、科学の力ではなく、生物の進化の方だ。
上のレベルでいえば、レベル2と3の間のハードルは想像以上に険しい。

逆に言えば、このハードルを越えて知的生命体へと進化した生物は、
必ずや科学の力を行使できるレベルに達するはずだと思われる。

先日のインド洋に航空機が墜落した事故のニュースを知って、
この狭い地球でも、墜落した飛行機を探すことすら困難なのだということに驚いた。

だから、海底のどこかに宇宙人の基地があったり、
アマゾンの奥地にエル・ドラードがあったりしても、あまり驚かない自信はある。

ましてや、この本でかなり頁数を割いて書かれている、ムーやアトランティスにしたところで、
実際に存在していても、何の不思議もないし、それによって人類史に矛盾をきたすこともない。

ただこの手の本を読んでいつも思うことは、
我々は古代人の想像力を下に見すぎているということ。

「古代人には想像力などないから、見聞きしたものをそのまま造形したり伝聞しているに違いない」
と思うのは大きな誤りではないだろうか。

古代インド人が、叙事詩の中で「空を飛ぶ車」と謡ったとき、
それを宇宙船だと考えるのは、あまりにも短絡的すぎるし、

ある種の装飾的な壁画や土偶を宇宙人だと考えるのは、
都合の良いこじつけ以外の何物でもない。

古代文明において、個人的に一番の謎は、巨石建造物だ。
果たしてあれだけの巨石を動かす力学を、どのように制御しえたのか。

そこにはまだ誰も気付かないような何らかのカラクリがあるはずで、
それが即ち宇宙人と結びつくわけではないことは、言うまでもない。