「進化とはなにか」(今西 錦司)

 

ダーウィン進化論の両輪ともいえる、
「自然淘汰」と「突然変異」をバッサリと否定し、

個体ではなく種レベルでの進化を考えるべきである、という主張は、
実に明快であり、40年前に書かれたとは思えないぐらい新鮮に感じられる。

著者による一例をあげよう。

たとえばコウモリについて考えてみると、
コウモリは哺乳類であるので、祖先は四足歩行をしていたはずで、
それがどのようにして翼を獲得したのか。

ネオダーウィニズム的解釈によれば、
四足だったコウモリの中で、翼をもった「突然変異」が生まれる。

その個体は翼を持っているから生存競争を勝ち抜くこととなり、
以降、その子孫は翼という特性を受け継ぐようになり、
すなわち新たな種(翼のあるコウモリ)へと進化する。

このようなストーリーはおそらく誰でも聞いたことがあるかもしれない。

しかしこれは、著者が言うように、よくよく考えてみるとおかしなところだらけである。

・突然変異で翼を得たコウモリが、子孫を残す前に不慮の事故で死ぬこともないとはいえない。
・新たな生活圏とした空中が、すでに他のライバルに占められている可能性もある。
・突然変異の個体が増えて種をなす、という時間スケールでは、生存競争を勝ち抜けないのではないか。
etc.

そこで著者が主張するには、
進化というものは、個体における変異が拡散したものではなく、
種全体に、ほぼ同時に生じるものである、と。

そして何より僕が一番驚いたことには、こう結論付けるのである。

つまり、種はあらかじめそのように進化すべく決められているのであり、
その原動力は何かといわれれば、「見えざる手」であるとしかいいようがない、と。

平たく言ってしまえば、遺伝子には、進化についてまでも、あらかじめプログラムされているということだ。

論の運びに粗い部分があるのは否めないが、
あらかじめプログラムされているという部分には同意したい。

ただ、僕としてはダーウィンの進化論は間違えているとは思えず、
種はおそらくあらかじめ進化がプログラムされているのだろうけれども、

すべての種が、任意のタイミングで進化を行えるというわけではなく、
そのスイッチを入れるには何らかのきっかけが必要となるのであり、
その十分条件を満たすのがダーウィン的進化論なのではないかと思うのである。