「シンギュラリティは近い」(レイ・カーツワイル)

 

今から10年以上前の大著『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンス版。

「シンギュラリティ(singularity)」とは、
「技術的特異点」と訳されているが、要するに、

コンピューター技術が進歩を遂げて、
人間の脳と同等以上の性能となる日のことで、

筆者はそれを2045年と定めている。

人間のソフトウェアとしての脳を、
自由にアップロード、ダウンロードできるようになり、

ハードウェアとしての骨格や内臓も、
ナノテクノロジーを駆使した技術部品に取って替わられる。

SF映画好きであれば、そんな風景は珍しくないかもしれないが、
人工知能における世界的権威でもあるこの本の著者によれば、
それはもう30年後に迫っているというのである。

それを裏付けるために、
著者はとにかく、コンピュータ技術の進歩がいかに凄まじいかを、
繰り返し繰り返し力説しているのだが、

確かに数値の面では、あと30年もあれば、
人間の体が丸ごとそのまま、コンピュータに替わるというのは、
無謀な計算ではないと思うのだが、

果たしてそれだけなのだろうか、という気も、
一方ではしてくるのである。

脳とコンピュータの比較や類似性については、
この本でかなり詳しく述べられているものの、

生物のもつそれ以外の部分、
たとえば遺伝についてはどうだろう。

これは個人的な見解ではあるが、
動物を動物たらしめる「中枢」は、
脳と同じぐらいの部分を遺伝子が占めているのだと思っている。

例えば、ヒトの咄嗟の行動には、
脳が信号を出すよりも早く開始されるものもあるのであって、

そこには脳の管轄外のプログラムの存在が垣間見れるのであり、
僕はそれは遺伝子の仕業ではないかと睨んでいる。

もちろんコンピュータにおいても、
自己増殖するプログラムは既に当たり前のことであり、

そこには「ウィルス」による変異の概念さえも存在していることは、
周知の事実であるが、

コンピュータがどこまで「自力で」繁殖し、
文字通り進化を続けることができるのか、

これについては、生物における遺伝との比較において、
もっと追究されるべきであると思う。

あと気になったのは、
基本的に、この本は性善説に基づいて書かれているということだ。

ソフトとしての脳を自由にアップロード、ダウンロードできるようになれば、
そこには恐ろしい問題が湧いてくるであろうことは、
容易に想像がつく。

単に悪用されるということ以外でも、
著作権や所有権等、

現在のソフトウェアビジネスに付き纏うあらゆる問題が、
さらにセンシティブな状態で再現されることになる。

つまり、コンピュータをヒトの脳と同等レベルに上げることは、
あと30年もあれば十分かもしれないが、
問題はそれを運用するための準備が、
人間の側にも、コンピュータの側にも出来ていないということだ。

それこそSF映画におけるように、
コンピュータが予期せぬ増殖を始めたりすれば、

この地球で突如増えだしたヒトが、環境を破壊しているように、
今度はコンピュータが、我々人間を脅かす存在となりかねない。
(たとえば、我々が肌身離さず持ち歩いている「スマホ」が、
突然凶悪なプログラムに乗っ取られたら、、と考えてみてほしい)

よって、僕はこの本を、科学礼賛の書ではなく、
むしろ警告本として捉えたいのである。