「古語と現代語のあいだ」(白石 良夫)

 

副題には「ミッシングリンクを紐解く」とある。

「ミッシングリンク」という語は、
一時期、考古人類学などで盛んに用いられていたもので、
「失われたつながり」、例えば、

「ホモ・ハビリスとホモ・エレクトゥスとのミッシングリンク」

のように、
AからBへのと進化を表す、
「未発見の中間状態の化石」
のことを表す。

だから、
「現代語と古語のミッシングリンク」といえば、

たとえば、「かなし」という語は、
古語では「かわいらしい」という意味で使われていたが、

現代語では「悲しい」という意味で用いる、
ならばその中間状態を表す用法が、
いずれかの時期にあったはずであるが、
そのような適例(ミッシングリンク)を探す必要がある、

という流れになるのかな、
と読前には思っていた。

けれど、違った。

そもそもこの著者は、
上記の「ミッシングリンク」の使い方を間違えている。

おそらく古生物学の文献など見たこともなく、
聞きかじり状態で使ったのだろう。

矢鱈と「ミッシングリンク」を連発するのであるが、
9割方は、「勘違い」という意味で使っている。
(そのような使い方は、この著者風にいえば、
本来の意味と実際の用法との「ミッシングリンク」(誤用)である。)

また、内容にしてもどうも腑に落ちないことが多い。

冒頭からの3分の1以上は、
なぜか若山牧水の作品解釈に費やされるわけだが、

たとえば、牧水の有名な歌、

白鳥は哀しからずや 空の青 海の青にも 染まずただよう

の「哀し」という語について、

この歌を作ったときの牧水は恋愛の真っ最中であったから、
「哀し」は「悲しい」の意味ではなく、
古語と同様「愛らしい」と解釈すべきである、

と熱弁をふるっているわけだが、

恋愛状態にあるから「悲しい」ではおかしい、
というのは、

文学的センスがまるでゼロな解釈であって、
それこそ著者のいう「ミッシングリンク」(誤用)である。

そこで止めておけばよいものを、
「哀し」の主語は、白鳥なのか、作者なのか、
という不毛な議論に踏み込んでいき、

さらには「哀しからずや」の「や」が、
疑問なのか反語なのかという、

最終的には堂々巡りにならざるを得ない展開に、
自ら落ち込んでしまっている。

もしも本来の意味の「ミッシングリンク」であること、
をベースにして書くのであれば、

この牧水の「哀し」は、
古語と現代語の両方の意味を含んだ例であり、

助詞の「や」にしても然り、
という形で論を進めるべきであったろう。

それをなぜか感情的に、
教科書批判のような流れにもっていこうとするから、

読んでいる方としては、
非情に胡散臭く感じるのである。

著者は元文部省の教科書調査官で、
現在は大学教授ということだが、

頭の中にあることと、
文章の書き方についての「ミッシングリンク」(誤用)を、
正された方がよいと思われる。