「藤河の記」(一条 兼良)

「藤河の記」(一条 兼良)

中世日記紀行集

関白太政大臣まで昇り詰めた政治家にして、
和漢に通じた碩学でもあった一条兼良による紀行文。

応仁の乱による混乱から奈良に避難していた作者が、
家族に会うために美濃国へ往復した際の出来事や、
歌枕に寄せた和歌などが記されている。

古典作品には、中身が大したことなくても、
何故か冒頭だけは気合の入ったものが多いわけで、
これもその類かもしれない。

やや長くなるが、作品冒頭を引用してみよう。

胡蝶の夢の中に百年の楽しみを貪り、
蝸牛の角の上に二国の爭いを論ず。(1)

よしといひ、あしといひ、ただかりそめの事ぞかし。
とにつけ、かくにつけて、一つ心をなやますこそ、おろかなれ。(2)

応仁の初め、世の乱れしよりこのかた、
花の都の故郷をば、あらぬ空の月日の行き巡る思ひをなし、(3)

楢の葉の名に負ふ宿りにしても、六返りの春秋を送り迎へつつ、
憂き節しげき呉竹の端になりぬる身を憂へ、(4)

小泥に生ふる菖蒲草の根をのみ添ふる頃にもなりぬれば、
山の東、美濃国に、武蔵野の草のゆかりをかこつべきゆゑあるのみならず、(5)

高砂の松の知る人なきにしもあらざれば、
さ乱れ髪のかき曇らぬ前にと、蓑代衣思ひたつ事ありけり。(6)

対句を用いながらの漢文調の「序」で(1)(2)を開始し、
(3)から本題へと入る。

(4)の部分には、

「神無月 時雨降りおける 楢の葉の 名に負ふ宮の 古言ぞこれ 」
「世にふれば 言の葉しげき 呉竹の 憂き節ごとに 鶯ぞ鳴く」
「木にもあらず 草にもあらぬ 竹のよの 端にわが身は なりぬべらなり」

といういずれも『古今和歌集』の古歌三首を散りばめつつ、

(5)には有名な、

「紫の ひともとゆゑに武蔵野の 草はみながら あはれとぞ見る」

を意識させ、

そして最後の(6)の部分では、

「梅雨空が曇らない前に」という意味の「五月雨」を、
「さ乱れ(髪)」という掛詞で二重化し、
「蓑代衣(みのしろころも)」には「美濃」を含ませるという、

いかにもこの道の大家らしい、
凝りに凝った文章になっている。

ちなみに、上記のように古歌を文章中にしのばせることで、
単に語句上の技巧であるにとどまらず、

古歌の持つ意味やニュアンスまでをも自らの文章に含ませ、
厚みを持たせることができるという効果がある(いわゆる和歌でいう「本歌取り」)。

なので、読む側としては、
特に作者が細かな情況や内面の描写をすることがなくても、

そこに含まれた古歌や『源氏物語』等の「元ネタ」を汲み取ることで、
多元的に内容を把握できるという楽しみもある。

とまぁ、長々と説明してしまったが、
上にも述べたように、作品の中身自体は大したことがないし、
収められている和歌も平凡。

ただ、中世の紀行文というのは、内容そのものよりも、
歌枕を巡るという行為そのものが、
やがて芭蕉の紀行文や、
浄瑠璃の道行などにつながっていく初期の姿としての、
文学的価値を味わうものなのだろう。

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