建部 綾足 作「本朝水滸伝」(新 日本古典文学体系
江戸中期の俳人・国学者、
建部綾足による読本。

二十五巻五十条という長編っぷりのため、
長らく積読状態だったのが、
読み始めてみたら、これがなかなか面白い。

内容としては、
荒唐無稽にして奇想天外。

孝謙天皇と結託して、
勢力を奮った怪僧・道鏡を打倒するため、

恵美押勝をリーダーとした反乱軍が、
各地で同志を集いつつ立ち上がる、
という話なのだが、

橘諸兄・奈良麻呂、大伴家持・書持を始め、
極めつけは楊貴妃までをも登場させ、

史実にはまったく反しているが、
とりあえずその時代のオールキャストを、
登場させてみた、という感じ。

まぁここまで開き直られると、
逆にすがすがしいというか、
フィクションの楽しさはこういうところにあるのではと、
一周回って感心させられるもするわけだが、

ただ、この作品(というかこの作者の傾向)には、
大きな特徴があって、
それは全編が擬古文で書かれているということ。

すなわち、執筆当時(江戸中期)には、
とっくに死語となっていた、
『記紀』『万葉集』の用語・引用を駆使することで、
何とも言えぬ、独特の世界観を構築している。

古典世界の引用は、
言葉の問題だけではなく、

例えば、塩焼王が不慮の死を遂げ、
その亡骸が反乱軍のアジトに運ばれてくる場面の、

奇丸道をいそぎて、夜もわかずのぼり行くに、
所だにかなしの岡といふあたりにて、
春野やく野火かと見れば、さもあらで、
此方ざまにまうで来る旅人の、いとしづまりたるが、
ともしたてたる炬の光なるに、
みさきを払ふ人もみなしろたへに打よそひて、
御棺のあたりならむ、かなしきこゑ立て、
泣女どもがなくを、さてこそとおもひて尚見るに、

という描写は、『万葉集 巻第二』の、
志貴親王が薨去した際の長歌、

梓弓 手に取り持ちて
大夫の 得物矢手ばさみ
立ち向ふ 高円山に 春野焼く
野火と見るまで もゆる火を
いかにと問へば 玉鉾の 道来る人の
泣く涙 こさめに降りて
白栲の 衣ひづちて 立ち留り
われに語らく 何しかも
もとなとぶらふ 聞けば
哭のみ泣かゆ 語れば 心そ痛き
天皇の 神の御子の
いでましの 手火の光そ ここだ照りたる

をベースにしていることは明白であり、
和歌でいう、いわゆる「本歌取り」による、
ムード・主題の継承が、なされているわけである。

その他にも、世話物的場面や、
やや残酷な場面など、
浄瑠璃や浮世絵を思わせる描写もあり、

江戸文学のひとつの形として楽しめるだけでなく、
おそらく後代の馬琴あたりにも、
多大なる影響を与えたであろう、
本作品の価値は少なくない。

ただ惜しむらくは、
おそらく半分にも満たず、
ストーリー的にはかなり中途半端な状態で、
未完成になってしまっていること。

カタルシスのない読後感とは、
こういうことかと、やや寂しくもある。