2.
「前をゆく木こりまでは、六、七間といったところでしょうか。

見た目には追いつくことなど訳もないと思っていたのですが、
思いのほか彼の歩みが速いのと、道が悪いのとで、
なかなか距離が縮まりません。

後を追いながらも、声は掛け続けていたのですが、
相も変わらず振り向くことはせず、
むしろ、声を掛ければ掛けるほど、彼の足は速くなり、
自分との距離は次第に広がっていくのでは、と思えたほどです。

募るもどかしさが、怒りを通り越して、やや諦めに差し掛かったとき、
今まで腰の高さほどあった叢が急に終わり、
目の前が、ぱっと開けました。

視界が開けたのと、耳に轟音が飛び込んできたのはほぼ同時でした。
われわれ二人の行く手には、大きな滝が、水の壁を作っていたのです。

道は滝に向かって右側を大きく迂回したのち、
吸い込まれるように、水の壁に突き刺さっていました。

その道を、木こりは速度を緩めることなく、ずんずん進んでゆきます。

先行する彼が、右側からの曲り道を抜けたとき、ちょうど彼の左の横顔が、
私の正面の位置にきました。

多少の距離があったとはいえ、
そのときの彼の表情――いえ、それは表情がまったくない、
真の無表情といえる顔でした――
を、今でもはっきりと覚えています。

一体、人が人である以上、
何かしらの感情が顔に出るものだとは思うのですが、
彼にはそれがなく、あたかも死人(しびと)・・・そう死人のようだったのです。

と思ったところへ、さらなる驚きが加わりました。

彼は、歩みを少しも緩めることなく、道を進み、
そのまま滝の中に消えていったのです。

それはわずか一瞬の出来事でした。

何のためらいもなく、天から落つるかと思われるその水の壁の中に、
すうっと入っていったではありませんか。」

老僧は、ここで小さく息を吐いた。

先ほどまで酒に浮かれていた者たちも、
気付いたら周りに集まり、話に聞き入っている。

やや強めの風が吹いて、桜の花びらが舞った。

左目のつぶれた老僧は、開いている右目を懐かしそうに細め、
皺の寄った口元を何やら動かしていたが、
すぐにまた語り始めた。

「木こりが滝の中に消えたとき、
自分はふと我に返り、これは魔物の仕業に違いない、と思いました。

しかし、もっと早く気付くべきだったのです。

誘われるように魔物のあとを追い、
森の奥深くまで来てしまったことを悔やみました。

ただ、もう今から引き返すこともできません。
ほどなく日も落ち切ってしまいます。

自分はここで覚悟を決め、腰に帯びた太刀を触って確かめると、
彼のあとを追って、自分も滝に入ることにしました。

目を閉じて、凄まじい音と飛沫をあげる水の壁を潜ると、
今まで歩いてきた足元の感覚がなくなり、
そのまままっすぐ、下へ下へ・・・

もう駄目だ、このまま落ちて死ぬんだ、と思った次の瞬間、
不思議なことに、自分の足元に地面の感覚が蘇ったのです。
確かに二本足で立っています。

恐る恐る目を開けてみると、これはどうしたことでしょう、
ここはどこかの村里ではありませんか。

あちらの方では、子供が毬で遊んでいます。
その横を犬が駆けていきます。

どこでにでもあるような平和な村の光景がそこにはあって、
魔物の仕業だと怪しんだのは間違いだったか、
とやや胸を撫で下ろしましたが、

それにしてもここがどこなのか、
あの滝からどうやってここに辿り着いたのか、それは依然、謎のままです。

「こいつぁ、俺のもんだよ」

混乱から覚めぬ自分の頭の中を鈍く通り過ぎるように、
野太い声がすぐ背後で聞こえたので振り返ると、
そこには先ほどの木こりと、彼と同じくらいの年恰好の男とが、
私を指さしながら、話し合っているところでした。

そして、「こいつ」というのがどうやら私のことを意味しているというのが分かったとき、
さきほどのほっとしかけた気持ちは、跡形もなくどこかへ消え去りました。

「まぁ、お前さんが見つけてきたんだから、仕方ないさね」
「そう、俺のもんてことよ」

そういってこちらを見た木こりの顔は、まるで木の皮のような肌と、
あの無表情。

それがいかにも恐ろしく、値踏みをするような目つきで、
私をまじまじと見ているのです。

私はこの魔物に喰われるのか、それともどこかへ売られるのか、
いずれにせよ、それならばここで奴を斬るまでと、

自慢の太刀に手をやりましたが、
滝から落ちた時に失くしたのか、腰にあるべきはずのものが、そこにありません。

「おめぇ、何やってんだ。まぁ俺に付いて来なね。」

その時初めて木こりに表情らしい表情が、
可笑しさと憐みとが一緒になったような、
微妙な緩みが口元に見られたのでしたが、

そんな表情をしたのを恥じらうかのように、
彼はくるりと背中を向けると、
あちらへいそいそと歩き始めました。

自分はもうどうすることもできず、
とにかく彼に従うのみでした。」