鎌倉には何十回となく訪れているが、
自分の中でストーリーをもって臨んだことは、今までにない。

いま「太平記」を読み進めていくうちに、
鎮魂、といっては大袈裟ではあるが、

あの悲劇の時代に血を流して散っていった人たちの跡を訪れるのも、
その悲劇を追体験する読者としての使命かとも思い、

岩波文庫版の「太平記」を片手に、
あらためて鎌倉を歩いてみることにした。

鎌倉幕府の滅亡を描くのは、「太平記」第十巻、
読みどころの多いこの作品の中でも、
ひとつのクライマックスとなる巻だ。

元弘三年(1333年)、
鎌倉幕府に寝返る形で、新田義貞は上野国で挙兵する。

武蔵の国を縦断しながら勝ち進み、
鎌倉攻めを開始したときの義貞軍は、八十万騎。
歩兵の数を加えれば、二百万人ほどの大軍勢だったことになる。

府中の辺りから南下してきたので、
まずは藤沢付近に兵を集めたに違いない。

鎌倉は、三方を山に囲まれ、一方が海に面した難攻不落の地。

果たして義貞がどのような計画で鎌倉を落とそうとしたのかは興味深いが、
まずは軍勢を三手に分けた。

横須賀線を北鎌倉で降りると、円覚寺、建長寺の脇を通り、
現在は閉館してしまった鎌倉近代美術館のあたりの坂(巨福呂坂)を下り、
八幡宮の横に出るのが、ひとつの散策コースになっているが、

ここを攻めたのが、堀口美濃守・大島讃岐守の七万騎。

そこと並んで、今でもメジャーなのは、
藤沢から江の島へ国道を下り、海沿いを鎌倉へ入るルート。

こちらへは、大館宗氏・江田行義の十万軍に、
海岸から一本内へ入った、極楽寺の切通しを攻めさせることにした。
※後述するが、稲村ケ崎付近の海は、北条の海軍が埋め尽くしていたため、
海岸沿いのルートは避けざるを得なかったのだろう。

そして、残りの六十万騎を、
大将義貞と、弟の脇屋義助が率いて、
化粧坂を攻めた、とある。

ここから明白なことは、
巨福呂坂と極楽寺の切通しの軍はダミー(陽動)であり、
本隊は化粧坂の軍だったということ。

そもそも兵の数が違いすぎるし、
化粧坂の軍には、義貞と義助の二本柱がいることからも明らかだ。

ただ、ここに謎がある。

今回、鎌倉に着いてまず向かったのは、この化粧坂だった。

ウグイスや、耳にしたことのないような澄んだ鳥の声を聴きながら坂の下までくると、
ほぼ整備されていない山道であることに驚く。

化粧坂

六十万騎という数字は誇張だとしても、
この道に大軍を進めるのは現実的ではない。

しかも決定的な問題があって、
この化粧坂のルートは、巨福呂坂のルートとあまりにも近すぎるのだ。

源氏山から化粧坂を下りてくると、
現在大姫の地蔵堂がある辺りで、道は二手に分かれる。

一方はまさに巨福呂坂のすぐ後ろに出るから論外として、
もう一方は、横須賀線の線路に沿う形で寿福寺の前に出る。

それでも、巨福呂坂ルートが辿り着く八幡宮の西側とは目と鼻の先で、
直線にすると500mも離れていない。

せっかく分けた軍が、ここまで近接して進んでしまうと、
もはや陽動でもなんでもない。

本気で陽動をかけるのであれば、
藤沢とは反対の逗子方面から本隊は攻めるべきで、
そうすれば鎌倉を挟み打ちできるのである。

義貞が逗子方面へ兵を回さなかったのは、
おそらく時間がなかったのであろう。

一日でも攻めるのが遅延すれば、
幕府側の御家人たちが集まってきてしまう。

奇襲をかけるためには、
全軍藤沢方面から攻めるしかなかった。

しかし僕の考えでは、義貞は決して化粧坂に大軍を進めたわけではなく、
おそらくその上の、源氏山に軍を待機させ、
状況に応じて各方面に兵を出していたに違いない。

源氏山からは、長谷方面にも鎌倉駅方面にも、
そしてもちろん化粧坂にも攻めることができる。

事実、「太平記」では化粧坂での合戦には一言も触れず、
義貞が現れるのは、なぜか極楽寺の切通しなのである。

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何気なく読み進めてしまうような箇所でも、
その場所を実際に歩いてみると、いろいろな深読みができる。

この日の化粧坂は急なだけではなく、かなりぬかるんでいた。

前後に鬨の声を聞き、頭上を矢が飛び交うのを想像しながら、
ゆっくりと山道を登ってみる。

その2に続く)

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