「太平記」の鎌倉を歩く(その3)

その2からの続き)

源氏山からの下りも、化粧坂に劣らぬ”古風な”道。
しかも長い。

源氏山

ここを抜ければ、鎌倉の中心部に出る。
おそらく義貞軍も通ったであろう。

最後は、一人がやっと通れるぐらいの隙間をくぐると、
寿福寺の裏手の墓地に出た。

寿福寺

黄泉の国の長い暗道を抜けて、この世に戻ってきたイザナキは、
きっとこんなカタルシスを体験したのだろう。

何となく、ホッとした。

そのまま寿福寺の門を出て、真っ直ぐ進めば鶴岡八幡宮当たる。

舞殿では、婚礼の儀。

鶴岡八幡宮

さきほどまでが「死とエロス」であるならば、
こちらは「再生」だろうか。

そういえば、黄泉の国から脱出したイザナキが禊をすると、
アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが誕生する。

つまりは生と死は隣り合わせであるのだけれど、
そんなことを思っていては新郎・新婦に申し訳ないので、

心の中で祝福し、八幡様にも通行料をお支払して、
次なる目的地へと急ぐ。

八幡宮から東へ15分ほど歩くと、
午後の陽光を浴びた白い鳥居が見えてくる。

「太平記」前半のヒーローの一人、護良親王を祀っている鎌倉宮だ。

鎌倉宮

親王とは天皇の子供のことだが、その中で一人だけが「皇太子」となり、
残りの子供は幼少期より寺院に預けられ、「法親王」となる。

そんな、表の政治世界からドロップアウトした親王も、
ひとたび内乱が生ずると、
自らを正当化したい輩に担ぎ出されて、
ふたたび表の世界に登場することとなる。

後醍醐天皇の皇子、大塔宮尊雲法親王もそんな一人で、
若くして戦乱に巻き込まれ、転戦中の十津川で還俗し、護良親王となる。

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由良の湊を見渡せば、門渡る船の梶を絶え、
浦の夕塩幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、
紀の路の遠山はるばると、藤代の松にかかる浪・・・
(「太平記」第五巻)
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ここでの道行は、明らかに義経の奥州への逃避行を重ねている。

義経の行き着いた先が平泉であるならば、
護良親王が辿り着いたのは、吉野城。

しかしここで幕府軍の猛攻に会い、

「御頬先、二の腕二処突かれさせ給ひて、血の流るる事なのめならず。
しかれども、立つたる矢をも抜かれず、流るる血をも拭はれず」

という有様で、遂に自害を決意するが、
忠臣・村上義光が親王の身代わりとなって敵を欺くことで時間を稼ぎ、
その隙に親王は逃げ延びる。

身代わりとなって、敵の眼前で壮絶に自害を遂げた村上義光の像が、ここ鎌倉宮にはある。

自分の体の悪い箇所を撫でることで、
この像が身代わりになってくれるということで、参拝者は皆撫でていく。

(僕がどこを撫でたかは、ここでは触れないでおこう。)

さて、親王の出した令旨を受け取った新田義貞が、
天皇方を攻めるのを中止し、
一旦、上野国へ戻ったあと鎌倉へ反旗を翻したのは、既述の通り。

鎌倉幕府は滅亡することとなり、
転戦を生き抜いた親王にとっても、一件落着となるはずだったが、
六波羅探題を落として武功のあった、足利尊氏・直義兄弟が、
元々幕府側の武士だった分際で、我が物顔をしているのが面白くない。

親王としてみれば、自分は最初から父・後醍醐天皇のために命をかけているのに、
最後に寝返って、手柄だけ持っていった足利兄弟は何様だ、と思っていたに違いない。

親王は征夷大将軍の位まで得たのではあるが、
足利兄弟とは、一触即発の状態となり、
結局、謀反の疑いあり、と讒言され、足利直義の管轄する鎌倉へ流罪となってしまう。

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・・・・・・
鎌倉へ下し奉って、二階堂の谷に土の獄を掘って、
置きまゐらせける。
・・・・・・
月日の光も見えざる闇室の中に向かって、
横切る雨に御袖を濡らし、岸の雫に御枕を干し侘びて、
年の半ばを過ごさせ給ひける、御心のうちこそ悲しけれ。
(「太平記」第十二巻)
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この時の土牢とされるのが、境内にある。

鎌倉宮の土牢

後世の人の手によるイミテーションとも言われているが、
思わず手を合わせてしまう。

親王が幽閉されて半年以上が経過した頃、
北条氏の残党(時行)が挙兵し、鎌倉へ攻め寄せた(中先代の乱)。

足利直義は、情けないことにこれを防ぎ切れず、退却することにしたが、
そのどさくさに紛れて、親王の殺害を決意する。

殺害を任された淵野辺甲斐守が土牢へ来てみると、
親王は暗闇の中で、静かに読経している。

淵野辺が斬りかかり、頸を掻こうとしたところ、
親王は刀を咥えて離さない。

刀の奪い合いをするうちに、親王が咥えたまま折れてしまったので、
すかさず淵野辺は脇差を抜いて親王を殺害、
頸を掻き落とした。

問題は、このあとだ。

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籠の前に走り出でて、明き処にて御頸を見ければ、
食ひ切らせ給ひける刀の先、未だ御口の中に留まって、
御眼は生きたる人のごとし。
淵野辺、これを見て、
「さる事あり。かようの首をば、敵に見せぬ事ぞ」とて、
傍なる藪の中へ投げ捨ててぞ帰りける。
(「太平記」第十三巻)
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淵野辺が、「さる事あり」(思い当たることがある)と言ったのは、
古代中国の民間説話で、刀を食いちぎった生首が敵の王を殺害する、
という恐ろしい話を思い出したからで、
物騒に思い、藪に捨てたのである。

その首を捨てた場所というのも、あった。

鎌倉宮

「太平記」に描かれた親王の首の件は、
自らの胴体を探し回ったという、平将門の首のことを想起させる。

だからこそ、護良親王の物語に沿うような史跡が、
おそらくかなり早い段階から造られてきたのだろう。

それが、本物かイミテーションなのかは、どうでもいい。
それを信じ、守ってきた人々の思いが、歴史になる。

境内をひととおり見たあと、
近くに親王の御墓があることは知っていたのだが、あいにく行き方が分からない。

社務所の方に道を尋ねると、「ぜひ行ってあげていただきたい」とおっしゃる。
これは、行かねばならぬ。

だが案の定、道に迷った。

無念ではあるが、先を急ぐので諦めようと思ったときに、
吸い込まれるように一本の路地を入った。

入ってすぐ、小川に橋が架かっている。
橋もまた、冥界への入り口である。

・・・着いた。
宮、遅れて申し訳ありませぬ。。

護良親王墓

社務所の方は、「六十段ぐらい階段を上ります」とおっしゃったが、
どう見ても、それ以上ある。

途中で振り返ると、こんな感じ。

護良親王墓

ようやく上り切ったが、
門は固く閉ざされ、これ以上先へは行けぬらしい。

拝み参る人をば拒み給ふは、なにゆえぞ。

護良親王墓

時代に翻弄された若き親王の数奇な運命に思いを巡らせながら、
しばし静かに拝み申し上げた。

親王の捨てられた御首は、この近くにあった寺の住職に拾われ、
此処に埋葬されたということだ。

せめて京都であったならまだしも、
敵地・鎌倉にて永眠することとなったのは、
これも因縁だと思ってらっしゃるのだろうか。

帰り道、再度鎌倉宮を通ってみると、
ここでもまた、結婚式が行われていた。

やはり、生と死は隣り合わせである。

その4へ続く)