(その2からの続き)
源氏山からの下りも、化粧坂に劣らぬ”古風な”道。
しかも長い。
ここを抜ければ、鎌倉の中心部に出る。
おそらく義貞軍も通ったであろう。
最後は、一人がやっと通れるぐらいの隙間をくぐると、
寿福寺の裏手の墓地に出た。
黄泉の国の長い暗道を抜けて、この世に戻ってきたイザナキは、
きっとこんなカタルシスを体験したのだろう。
何となく、ホッとした。
そのまま寿福寺の門を出て、真っ直ぐ進めば鶴岡八幡宮当たる。
舞殿では、婚礼の儀。
さきほどまでが「死とエロス」であるならば、
こちらは「再生」だろうか。
そういえば、黄泉の国から脱出したイザナキが禊をすると、
アマテラス・ツクヨミ・スサノヲが誕生する。
つまりは生と死は隣り合わせであるのだけれど、
そんなことを思っていては新郎・新婦に申し訳ないので、
心の中で祝福し、八幡様にも通行料をお支払して、
次なる目的地へと急ぐ。
八幡宮から東へ15分ほど歩くと、
午後の陽光を浴びた白い鳥居が見えてくる。
「太平記」前半のヒーローの一人、護良親王を祀っている鎌倉宮だ。
親王とは天皇の子供のことだが、その中で一人だけが「皇太子」となり、
残りの子供は幼少期より寺院に預けられ、「法親王」となる。
そんな、表の政治世界からドロップアウトした親王も、
ひとたび内乱が生ずると、
自らを正当化したい輩に担ぎ出されて、
ふたたび表の世界に登場することとなる。
後醍醐天皇の皇子、大塔宮尊雲法親王もそんな一人で、
若くして戦乱に巻き込まれ、転戦中の十津川で還俗し、護良親王となる。
——————-
由良の湊を見渡せば、門渡る船の梶を絶え、
浦の夕塩幾重とも、知らぬ浪路に鳴く千鳥、
紀の路の遠山はるばると、藤代の松にかかる浪・・・
(「太平記」第五巻)
——————-
ここでの道行は、明らかに義経の奥州への逃避行を重ねている。
義経の行き着いた先が平泉であるならば、
護良親王が辿り着いたのは、吉野城。
しかしここで幕府軍の猛攻に会い、
「御頬先、二の腕二処突かれさせ給ひて、血の流るる事なのめならず。
しかれども、立つたる矢をも抜かれず、流るる血をも拭はれず」
という有様で、遂に自害を決意するが、
忠臣・村上義光が親王の身代わりとなって敵を欺くことで時間を稼ぎ、
その隙に親王は逃げ延びる。
身代わりとなって、敵の眼前で壮絶に自害を遂げた村上義光の像が、
ここ鎌倉宮にはある。
自分の体の悪い箇所を撫でることで、
この像が身代わりになってくれるということで、
参拝者は皆撫でていく。
(僕がどこを撫でたかは、ここでは触れないでおこう。)
さて、親王の出した令旨を受け取った新田義貞が、
天皇方を攻めるのを中止し、
一旦、上野国へ戻ったあと鎌倉へ反旗を翻したのは、既述の通り。
鎌倉幕府は滅亡することとなり、
転戦を生き抜いた親王にとっても、一件落着となるはずだったが、
六波羅探題を落として武功のあった、足利尊氏・直義兄弟が、
元々幕府側の武士だった分際で、我が物顔をしているのが面白くない。
親王としてみれば、自分は最初から父・後醍醐天皇のために命をかけているのに、
最後に寝返って、手柄だけ持っていった足利兄弟は何様だ、
と思っていたに違いない。
親王は征夷大将軍の位まで得たのではあるが、
足利兄弟とは、一触即発の状態となり、
結局、謀反の疑いあり、と讒言され、
足利直義の管轄する鎌倉へ流罪となってしまう。
——————-
・・・・・・
鎌倉へ下し奉って、二階堂の谷に土の獄を掘って、
置きまゐらせける。
・・・・・・
月日の光も見えざる闇室の中に向かって、
横切る雨に御袖を濡らし、岸の雫に御枕を干し侘びて、
年の半ばを過ごさせ給ひける、御心のうちこそ悲しけれ。
(「太平記」第十二巻)
——————-
この時の土牢とされるのが、境内にある。
後世の人の手によるイミテーションとも言われているが、
思わず手を合わせてしまう。
親王が幽閉されて半年以上が経過した頃、
北条氏の残党(時行)が挙兵し、鎌倉へ攻め寄せた(中先代の乱)。
足利直義は、情けないことにこれを防ぎ切れず、退却することにしたが、
そのどさくさに紛れて、親王の殺害を決意する。
殺害を任された淵野辺甲斐守が土牢へ来てみると、
親王は暗闇の中で、静かに読経している。
淵野辺が斬りかかり、頸を掻こうとしたところ、
親王は刀を咥えて離さない。
刀の奪い合いをするうちに、親王が咥えたまま折れてしまったので、
すかさず淵野辺は脇差を抜いて親王を殺害、
頸を掻き落とした。
問題は、このあとだ。
——————-
籠の前に走り出でて、明き処にて御頸を見ければ、
食ひ切らせ給ひける刀の先、未だ御口の中に留まって、
御眼は生きたる人のごとし。
淵野辺、これを見て、
「さる事あり。かようの首をば、敵に見せぬ事ぞ」とて、
傍なる藪の中へ投げ捨ててぞ帰りける。
(「太平記」第十三巻)
——————-
淵野辺が、「さる事あり」(思い当たることがある)と言ったのは、
古代中国の民間説話で、刀を食いちぎった生首が敵の王を殺害する、
という恐ろしい話を思い出したからで、
物騒に思い、藪に捨てたのである。
その首を捨てた場所というのも、あった。
「太平記」に描かれた親王の首の件は、
自らの胴体を探し回ったという、平将門の首のことを想起させる。
だからこそ、護良親王の物語に沿うような史跡が、
おそらくかなり早い段階から造られてきたのだろう。
それが、本物かイミテーションなのかは、どうでもいい。
それを信じ、守ってきた人々の思いが、歴史になる。
境内をひととおり見たあと、
近くに親王の御墓があることは知っていたのだが、
あいにく行き方が分からない。
社務所の方に道を尋ねると、
「ぜひ行ってあげていただきたい」とおっしゃる。
これは、行かねばならぬ。
だが案の定、道に迷った。
無念ではあるが、先を急ぐので諦めようと思ったときに、
吸い込まれるように一本の路地を入った。
入ってすぐ、小川に橋が架かっている。
橋もまた、冥界への入り口である。
・・・着いた。
宮、遅れて申し訳ありませぬ。。
社務所の方は、「六十段ぐらい階段を上ります」とおっしゃったが、
どう見ても、それ以上ある。
途中で振り返ると、こんな感じ。
ようやく上り切ったが、
門は固く閉ざされ、これ以上先へは行けぬらしい。
拝み参る人をば拒み給ふは、なにゆえぞ。
時代に翻弄された若き親王の数奇な運命に思いを巡らせながら、
しばし静かに拝み申し上げた。
親王の捨てられた御首は、この近くにあった寺の住職に拾われ、
此処に埋葬されたということだ。
せめて京都であったならまだしも、
敵地・鎌倉にて永眠することとなったのは、
これも因縁だと思ってらっしゃるのだろうか。
帰り道、再度鎌倉宮を通ってみると、
ここでもまた、結婚式が行われていた。
やはり、生と死は隣り合わせである。
(その4へ続く)
[…] (その3へ続く) […]
[…] (その3からの続き) […]
[…] (その3からの続き) […]