「太平記」の鎌倉を歩く(その4)

その3からの続き)

鎌倉宮を後にし、西へと戻る。

若宮大路の一本東の道を南下し、200~300mほど歩くと案内板がある。

次の目的地は、鎌倉幕府最後の執権、北条高時が新田義貞に攻められ自害をした場所、
通称「高時腹切りやぐら」である。

そもそも「太平記」の史跡を歩くということ自体が、
人の死の跡を訪れることだという認識はあったが、
やはり血腥い処が続くな、、、という思いはある。

観光客などほとんど通らない住宅街の中を抜けていくと、
「東勝寺橋」に差し掛かる。

東勝寺橋

さきほどの護良親王の墓のときと同様、
橋を渡れば、そこは異界。

少し神妙な気持ちになりながら、一歩ずつ橋を渡っていく。

橋を渡ったところでは、中学生ぐらいの女の子二人が、楽しそうにバドミントンをしている。
地元の子たちなのだろうか、
こんにちわ、と声を掛けてきたので、こんにちわ、と返す。

道はさらに細くなり、若干上りになる。

すぐ左手にある空き地が、「東勝寺」の跡地だ。

東勝寺

「鎌倉殿(北条高時)の御屋形も焼けて、入道殿(高時)は東勝寺へ落ちさせ給ひぬ」

と「太平記」にあるとおり、
義貞軍を防ぎきれず、いよいよ切羽詰まった高時は、
ここ東勝寺へ籠ったという。

鎌倉は京都とは違い、南側が大きく海に面しており、
後述のとおり、当然ながら幕府は相応の海軍を有していたはずだ。

つまり、本気で逃げようと思えば、かつて挙兵に失敗した若き頼朝のように、
海路を房総なりに逃げる方法はあった。

もしくは、義貞軍が兵を回さなかった北東方面から、
逗子へと抜けることも可能だったはずである。

しかし敢えてその道を選ばず、
この東勝寺へ籠った高時は、すでに覚悟を決めていたのだろう。

頼朝一族を葬り去り、幕府の権力を一手に握ってきた北条氏の栄華を、
もはや自らの代までと見限った潔さ、

決して贔屓に描かれることのない高時であるが、
死と向き合った一人の人間として行動は、感慨深いものがある。

もちろん「太平記」の作者も、人情を解する者であった。

第十巻にて全滅する北条軍に対しては、もはや敵意は見られず、
滅びゆくものへ手向けるかの如き描写へと、
微妙に書きぶりが変わっている。

さて、
最後の奉公をと、鎌倉の防戦に死力を尽くした長崎次郎基資は、
馬を乗り換え、太刀を履き替え、

「敵を切って落とすこと三十二人、陣を破る事八度」

という活躍で、この東勝寺へ参上する。

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かくて相模入道(高時)のおはします東勝寺へ帰り参りて、
中門に畏まって、涙を流し申しけるは、
「基資、数代奉公の儀を忝うして、朝夕恩顔を拝し奉り候ひつる御名残り、
今生に於いては今日を限りとこそは覚え候へ。
(中略)
上(高時)の御存命の間に、今一度かの敵の中へ懸け入って、
思ふほどの合戦仕って、冥土の御供申さん・・・」
と申して、また東勝寺を打ち出でければ、
入道(高時)、後ろを遙かに見送り給ひて、涙を流し立たれける。
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死することが分かっていながら、
冥土の御供をする前に、もうひと合戦しようという心意気、

こういう風潮が、昭和の軍国主義に利用されたであろうことは否定できないが、
それは利用した側の問題であって、利用された側に罪はない。

基資の戦いぶりは、執念ともいうべきものだった。

北条軍の旗を捨て、敵になりすまして義貞へと近付く作戦をとった。

この「なりますまし作戦」は、ここ以外にも「太平記」に多く登場するもので、
裏を返せば、このような戦法が成り立つぐらい、敵・味方の区別がつかぬ、
一攫千金を狙う雇われ侍たち同士の、混乱した戦場だったともいえる。

しかし基資の作戦は、義貞側の見知った相手によって見破られてしまい、
最後は八騎になるまで奮戦しながら、

「鎧に立つ処の矢二十三筋、蓑毛の如くに折り懸けて」

というありさまで、何とか東勝寺まで戻ってくる。

「随分と遅かったではないか」という高時に対し、
「義貞軍を何百人も斬り捨てましたが、上(高時)が心配で戻って参りました。
今はご一緒に自害致しましょう」という基資。

最後の盃を交わしながら、まずは基資が割腹し、腸を取り出し、
側近たちが順番にそれへ倣い、
最後は、高時も切腹して果てる。

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血は流れて、滾々たる洪河のごとし。
屍は満ちて、塁々たる郊原のごとし。
死骸は焼けて見えねども、後に名字を尋ぬれば、
ここ一所にて自害したる者、すべて八百七十三人なり。
(「太平記」第十巻)
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この他、鎌倉中で命を落とした人の数は、六千人強だったと、「太平記」は伝えている。

高時が腹を切った場所と言われているのが、

「腹切りやぐら」。

高時腹切りやぐら
高時腹切りやぐら

「太平記」には、特にやぐらにて自害したという記述は見当たらないが、
東勝寺のすぐ裏にあったことから、
ここが自害の場所として、古くから信じられてきたのであろう。

観光客からは見向きもされず、草が生えるのに任せ、
近付くものを拒むかのような凄味がある。

僕にはオカルト趣味はなく、亡者をネタにするようなことは書きたくないが、
なぜか近づいて撮影した画像がことごとく、暗いのが気になった。

高時腹切りやぐら

ここでもまた、丁寧に手を合わせ、一礼。

最後の目的地へ向かうため、足早に立ち去ったのだが、
ついさきほどまで元気にバドミントンを楽しんでいた女の子たちは、
いつの間にかいなくなっていた。

その5へ続く)