「オルセーのナビ派展」(@三菱一号館美術館)

オルセーでボナールの魅力を体感できたのは、自分にとって相当の衝撃だったようで、
それ以来、ボナールを観れる機会があれば、足を運ぶようにし、
そして観るたびに、新しい発見がある。

とにかく、飽きない。

とことん作品を観てみたいと思えるのは、
ボナールの他には、セザンヌぐらいである。

なので、「ナビ派」というとぱっと思いつくのはドニではあるが、
そもそもドニはそんなに好きな画家ではないし、
当然ながら、この日の目当てもボナールだ。

・「黄昏(クロッケーの試合)」(ピエール・ボナール)

「黄昏(クロッケーの試合)」(ピエール・ボナール)

もしこれと同じ場面をルノワールが描いたならば、、と想像してみると、
絵画好きならばすぐにイメージができると思う。

外光たっぷりの場面といい、近景と遠景からなる構図といい、
これはまさに印象派が得意とする題材である。

それをボナール流に料理するとこうなるという、
彼のファンには堪らない作品。

浮世絵風な平面的な構図に、ベタ塗りを施し、
チェック柄とそれに対応するかのような、パズルのような葉の形、

絵画とデザインの中間のような表現を凝縮させた、
観れば観るほどその才能に唸らされる一枚だ。

この作品が、今回の個人的なベスト。

・「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」(ピエール・ボナール)

「ベッドでまどろむ女(ものうげな女)」(ピエール・ボナール)

ドス黒い情念のようなものが渦巻くこのような作品は、
ボナールには珍しいと思う。

裸体そのものよりも、シーツの乱れの曲線によって、
観る側の本能にどことない不安のようなものを植え付ける。

女性の右足をベッドの外に垂らすことで、逸脱した行為の程度を想像させ、
左の足を曲げさせることで、曲線が支配する構図に、絶妙な鋭角を生み出している。

さきほどの「黄昏(クロッケーの試合)」とは、
作品の質が、180度まるで違うのがお分かりいただけるだろう。

どんなテーマであっても、ワンパターンにならず、
最適解を見つけて表現するのが、ボナールのスゴさなのだと実感できる。

・「ランプの下の昼食」(ピエール・ボナール)

「ランプの下の昼食」(ピエール・ボナール)

そして、もう1つ。

遠景と近景、光と影のコントラストを劇的に使用しつつも、
あちらからこちらに向けられた赤ん坊の視線によって、
ホッとさせられる作品だ。

たとえばカラヴァッジョやレンブラントでもそうなのだけれど、
明暗のコントラストというのは、そのまま不安につながりやすい。

それを逆手にとって、赤ん坊を(しかも画面ほぼ中央に)配置したのは実に心憎い。

でも見ようによっては、この赤ん坊の視線がやけに不安げに見えて、
観ている側の不安が倍増する、という人もいるかもしれない。

この絵の前に立って、赤ん坊と視線を合わせながら、
気付いたら、不安がどうのこうのとか、心理戦をさせられることになるのだから、
ボナール恐るべしである。

ちなみに、手前のスプーンとあちらのスプーンが平行になっているのが、
構図的な安定感をもたらしている。

・「エッセル家旧蔵の昼食」(エドゥアール・ヴュイヤール)

「エッセル家旧蔵の昼食」(エドゥアール・ヴュイヤール)

ボナールの作品以外で、取り上げるとすればこれかな。

とにかく計算され尽くした1枚。

画面中央から二等辺三角形のクロスが垂れ下がり、
その両端に夫と妻を配置、
さらに二人から等間隔に背の高いビンを描く。

つまり、画面の横幅を、夫-ビン-ビン-妻で四等分し、
かつ夫と妻を結ぶラインを底辺として二等辺三角形を描くという、
実に均整のとれた構図が、この絵のベースを形作っている。

画面の下半分が安定したバランスを保っているため、
上半分は、そこから若干ズラしてあげるのが鉄則。

すぐに目がいく巨大な額縁は、画面中央よりもやや右に寄せ、
おそらく不仲なのであろう夫婦の間に座る母親も、
その額縁とともに右に寄せ、視線も右に向けさせる。

さらに左右の壁に掛けられた額縁も右の方を大きくし、
鑑賞者の意識は、自然と右に偏重となる。

全体として右に重心が寄っている絵であれば、
おそらくここで取り上げることはなかったのだろうけれど、

繰り返すけれど、画面下半分の完全なるバランスがあるからこそ、
上半分のアンバランスが活きてくるのであって、

偶数拍子のベースの上に、奇数拍子の旋律が乗っているような感覚、
それが実に心地よいのである。