ゲームやパソコンに限らず、
芸術においても「ハードとソフトの問題」というのは、
しつこく付き纏う。
この際、「三菱一号館美術館」というセンスの欠片もないネーミングには、
百歩譲って目を瞑るとしよう。
しかしその「ハードとしての美術館」のヒドさと言ったら、
堪らない。
チケットを買って、
いきなり狭いエレベータでアッパーフロアに移動させられ、
移動したらしたで、狭い通路と人ゴミがそこには待っている。
やっと広い場所に出たと思ったら、
次の展示スペースは、またさっきより狭い廊下だ。
これならいっそのこと、
「ホーンテッドマンション」を改造した方が、
よっぽどイイ美術館になる。
もし、東京の良い処を挙げよ、と言われれば、
「良い美術展があること」というのは、5本の指に入るだろう。
しかもどの美術展に行っても、
かなりの混雑をしているし、興行的にもオイシイのは間違いない。
だから、国立新美術館、サントリー美術館、森美術館など、
新しい美術館が次々にできるのはwelcomeだし、
いま名前を挙げたような美術館は、
それぞれの個性こそあれ、ハードとしてそれほど劣っているとは思わない。
でも今回新たに仲間入りした、
「三菱一号館美術館」は、どうもマズイ。
しばらくは、余程の展示がない限り、
訪れることはなかろう。
さて、そんな辛口ばかりでは、
今回の主役マネに申し訳ない。
マネの良さ。
それは、同時代の、
例えばルノワールやセザンヌ、ゴーガン、ゴッホ、モネらの絵に接するときの、
あの「緊張感」、
そう、あの「何かを感じなければいけない切羽詰まったカンジ」を、
感じないところにある。
それは作品として劣っているというわけでは決してなく、
作品自らが理解されることを求めてくるような脅迫感がないということで、
分かりやすく言ってしまえば、
「安心して・気楽に」絵を楽しめるのである。
そこは同時代で、しかも名前が似ているために(日本では)よく間違えられる、
モネとは全く違う。
マネという画家は、人物画の魔術師と呼んでもよい。
ルノワールなんかと違って、印象派的手法を前面に出さずに、
ストレートに人物に向かい合って描くその姿勢は、
当たり前ではあるけれども、
近代の絵画がその後忘れていってしまった、
「描くということの意味」とは何かを、
見るものに思い起こさせるに違いない。
「シンプル・イズ・ザ・ベスト」とは、
絵画の分野にあっては、まさにマネに対する賛辞であろう。