なんです。僕は。
「ツイート」(つぶやき)という態度は、
「発言」とは異なる。
「発言」には責任がある。
でも「つぶやき」は公のものではないから、
責任を免れ得る、という甘い考えがそこにはある。
もちろん「つぶやき」という行為自体に非はないが、
猫も杓子も、企業や政治家までもが、
自分の意見を「ツイート」するというのは、
潔さというか責任感が欠如しているような気がする。
つまり、何か言っても、
「あれはつぶやきですから」という甘えがあるように思えるのである。
そんな姑息な道具に頼らずに、
堂々と物を言えばいいのに。
かつて宗教裁判にかけられ、
自説の地動説を曲げざるを得なかったガリレオ・ガリレイは、
「それでも地球は周っている」
と「ツイート」したとされる。
決して公にはできない、まさに命がけの「ツイート」だったわけで、
現代の世に氾濫している「ツイート」とは異質であることは、
言わずもがなである。