「色」というものを、物理現象として捉えれば、
まずは物体が存在し、その物体がどのような波長の光を反射するかによって、
どのような色に見えるかが、決まる。
つまりは、「はじめに物体ありき」なわけで、
その逆ということは、絶対にありえない。
絵画においても同様で、まずは形(shape)があり、
それにどのような色(color)を施すか、ということが根本のテーマであり、
そこにヴァリエーションを加えるのが、画家の個性であった。
印象派の意義というのは、この「shape>color」の関係を、
とことん見直したことにある。
もちろん、代表的な印象派の作品の中にも、
「shape>color」の関係が従来のままであるものも多数あるし、
「ポスト印象派」である、例えばゴーガンの作品では、
むしろ、「shape>color」であることが、強烈な特徴ともなっている。
しかし、印象派の一部の冒険者たちは、
その逆、すなわち「shape<color」という関係に価値を見出し、
その流れが、たとえばデュフィのような、「はじめに色ありき」という作品を生むことになる。
「はじめに色ありき」。
色というものをメインに扱う美術において、
この「はじめに色ありき」という考えが、なぜもっと早く誕生しなかったのか。
shapeに従属するcolor、というのは、まるでキリスト教の肉体と霊魂の関係のようで、
非常に興味深い。
ともかくも、色をその従属関係から解放するためには、
印象派の登場を待たねばならなかった。
その代表が、ルノワールだ。
ルノワールの真骨頂は、その色遣いによる、人肌の質感表現にあるわけだが、
今回のメイン展示である「ジャンヌ・サマリーの肖像」でも、それは顕著にあらわれている。
けれど僕が注目した一枚は、この「セーヌの水浴(ラ・グルヌイエール)」。
ここではいわゆる「ルノワールらしさ」は影をひそめているのだが、
「はじめに色ありき」の代表的な作品として、個人的には気に入っている。
セーヌの水流と、緑の木々、そしてそれを見守る人々。
そこにあるのは「形」ではなく、「色」だ。
ひとつの場面において、色が集合し、それが「偶々」そのような形に見える。
人物の表情を描き分ける天才でもあったルノワールの作品なのに、
この絵では、誰ひとり、表情などは分からない。
「形」という制限がない分、色は自由に、その存在感を主張することができるのだ。
このような技法を得意とした画家は、モネであったわけだが、
ルノワールには、モネに見られるあの独特な「重さ」のようなものが無いのは、
長所ではあっても、短所ではないだろう。