文系・理系を問わず、「まっとうな」学者というものは保守的なので、
予算がつかないような研究なぞ、やろうとしない。
言語学でいえば、差別語などというものは、鬼っ子中の鬼っ子で、
学問的にアプローチされることなど、今後もないであろう。
この本は、言語学界のアウトローともいえる著者だから書けたわけで、
連載の途中で出版社側からお断りが入ったエピソードなどは、
なるほど、と思わせる。
それにしても、差別語というのは、難しい問題だ。
「めくら」がアウトで、「盲目」がセーフというのを、論理的に説明できる人などいるだろうか。
この本でも触れられているように、やまと言葉を外来語(漢語を含む)に置き換えることで、
意味がストレートに伝わることを避けようとしている、という見方に、おそらくヒントはあるだろう。
ただ、漢語に置き換えたところで、
実は漢字の方が、その字義を辿ると露骨に差別的だったりする場合もあるから、
だったらいっそのこと、blindとかdeafとかにした方がよいのでは?とも思うのだが・・・。
例の3.11の大震災は、
政治、経済、科学、環境、エネルギー、マスコミ、あらゆる分野で転機となった。
ことばの問題で言えば、「原発(げんぱつ)」ということば。
あの事故が起こる前までは、特に気にしていなかったけれど、
あれ以降、「げんぱつ」ということばを耳にするたびに、いろいろと考えさせられる。
「ん」という撥音の直後に「ぱ」という半濁音がくることで、「ハネる」感覚を生んでおり、
さらに冒頭の「ge」という音が、重厚さを出しているのだ。
「原子力発電所(げんしりょくはつでんしょ)」と発音されれば、どうということはないが、
「げんぱつ」と言われると、どうしても負のイメージがつきまとう。
そこには「原爆(げんばく)」からの想像もあるかもしれないが、
それにしても、穏やかなことばでないことは、確かだ。
つまりことばというのは、表記、発音、シチュエーション、あらゆる要素によって変わってくるので、
辞書に書いてあるような、最大公約数的な意味は、あまり現実的ではない。
なので、差別語という問題は、非常にデリケートであるとともに、
言語学的には、興味深い題材のはずである。
なぜ差別語糾弾運動が起こったのか、それにどう対処すべきなのか、を考えると、
言語の本質ともいうべきものが見えてくる。