大袈裟で表現過剰ともいえる説経節の世界を、
これまた濃厚な水上勉の筆で描いた好著。
少年期に出家をし、特異な環境で育ちながら、
盲目の祖母とともに、旅芸人の語る説経節に親しんできた著者ならではの、
いわば「等身大」の説経節の世界を堪能できる。
採り上げられているのは、
「さんせう太夫」「かるかや」「信徳丸」「信太妻」「をぐり」の名品五編で、
原文をたっぷりと交えながら、
「覚書き」には、それらの舞台になつた場所を実際に訪れた印象も描かれていて、
まるで切々たる太夫の語りと、武骨な人形芝居を目の前にしているかのような錯覚に陥る。
ただ、水上自身も、完全には説経節の世界に没入できずに、
ところどころで、ここは不自然だと、とか、理不尽だというように、
一歩引いた立ち位置からの感想を差し挟んでおり、
それが逆に、著者の内面の葛藤のようなものをリアルに伝えているようで、興味深い。
でも「さんせう太夫」については、翻案した森鴎外のことをやや持ち上げすぎで、
この作品は、やはりドロドロとして残酷でもある説経節でこそ生きるのであって、
鴎外先生の「山椒太夫」は、いかにもスマートすぎて、物足りないように思う。
水上も本音ではそう思っているに違いないのだが、
そこはやはり文壇の大先輩のことを立てたのだろうか。
ちょっと歯がゆい思いがした。
高名な儒学者である太宰春台をして、
「その声もただ悲しき声のみなれば、婦女これを聞きては、
そぞろ涙を流して泣くばかりにて、浄瑠璃の如く淫声にはあらず・・・
言はば哀しみて傷(やぶ)るといふ声なり」
と言わしめたほどの説経節も、
義太夫その他の浄瑠璃に人気を奪われ、
いまでは東京の、僕の住む板橋区にて、三代目若松若太夫が伝えるのみである。
しかしながら、そのエッセンスは、義太夫節に、
そして日本人の心の奥深くに息づいていることを、
この本を通して知ることができる。