この本は、
僕が卒論を書いたときに大いに参考にした本で、
一時期書物を断絶したときに、
古本屋に売り払ってしまったのだが、
この間、高田馬場の古本屋に入ったら、
格安で売られていたので、
懐かしさのあまり、また買ってしまった。
あらためて読んでみると、
かなり難解である。
二十年近く前の自分は、
果たしてこれを理解していたのか、
はなはだ疑わしい。
(あるいは自分の理解力が低下した可能性もある)
正直、全体の理解度は、
8割にも満たないのかと思うが、
ちょっと気になる部分があった。
それは、「続枕詞論」の冒頭、
「みをつくし難波」という枕詞の用法は、
近松が編み出したということを説明している部分で、
このように書かれている。
「最近必要あって近松の浄瑠璃をよみ直す機会があった。・・・」
吉本隆明は、
何気なく書いたのだと思うが、
浄瑠璃を「読む」という部分に、
僕は強烈な違和感を感じた。
古典芸能に親しむ者にとっては、
浄瑠璃は「聴く」ものであり、
「読む」という感覚は存在しない。
もちろん、テキストとして読むことはあるが、
それは「浄瑠璃」を読むわけではなく、
「近松の作品」を読むわけであって、
「浄瑠璃を読む」というのは、
例えば「太鼓を弾く」と言われたのと同じぐらい、
しっくりこない表現なのである。
実はこのことが、
吉本隆明の古典文学へのアプローチの仕方を、
如実に示しているのではと思えるのであり、
すなわち、和歌も浄瑠璃同様、
「発声文学」なわけで、
「発声」という側面を置いておいて、
ひたすらテキスト面からのみ作品に迫る、
吉本の方法論には、
やはり限界があるのではなかろうか。
もちろん、
和歌の上句と下句との間の、
「暗喩」とも言うべき関係性、
古代歌謡がいかにして、
和歌へと収斂していったのか、
といったあたりを論じる切り込み方は、
通常の国文学者にはできないものだ。
でもそれは、
徹底してテキスト至上主義なのであり、
「謡われた」もしくは、
「詠まれた」作品としての歌謡の本質には、
残念ながら迫りきれていないと思う。
ただ著者を弁護するとすれば、
古代歌謡がどのように発声されたのかについては、
まったくといってよいほど手がかりがなく、
すべては想像するほかないのだ。
ではまったくのお手上げなのかというと、
僕としては、
古代歌謡の片鱗とでもいうべきものは、
思わぬジャンル、
たとえば民謡などに、
残っている可能性も捨て切れず、
文学を一旦離れ、
民俗芸能の側から光を当てることで、
古代歌謡、そして和歌の新たな一面が、
浮かび上がってくるのではないかと、
ひそかに研究の準備を進めようと、
思っている次第である。