単刀直入に感想を述べるならば、「残念すぎる展覧会」。

北斎を始めとする江戸芸術が、
西洋美術に与えた影響を具体的に検証することは、
価値あることには違いない。

しかしどんなに有意義なことでも、
やりすぎるとマイナス面ばかりが目立つ結果となる。

この企画展が、まさにそれ。

説明するまでもなく、北斎は多作な画家で、
極論をいえば、彼が描かないものはなかったと言ってもいい。

人の姿勢や表情から、あらゆる生き物、風景に至るまで、
およそ目に映るものはすべて描ききったといっても過言ではなかろう。

だから、「この絵はなんとなく北斎に似ている」という評論には、
何の価値もない。

それが許されるのであれば、
僕の人生のあらゆる瞬間は、
すべて北斎の模倣と言ってもよいことになる。

もちろん、明確に北斎を模写したものであったり、
彼のモチーフを参考にしたりしたものは存在する。

それらを並べて丁寧な比較をすることにこそ意義があるはずなのだが、
当展覧会は、とにかく数を揃えることだけに執念を燃やしたかのようで、

「北斎の影響を受けている」として紹介されているものが、
まさに牽強付会と呼ぶにふさわしいことは、
下記の例を見れば明白だと思う。

「下校する子供たち」(ピエール・ボナール)
「水浴の女たち」(ポール・ゴーギャン)
ルドン

一番上は、ボナールの「下校する子供たち」。
これがその上にある尻丸出しの北斎の人物の影響を受けているものとして、
紹介する意義があるのかどうか。

真ん中はゴーギャンの「水浴の女たち」。
この絵自体は、それなりに見所はあるのだけれど、

なぜか似ても似つかぬ、「北斎漫画」が並べられることにより、
「どこが似てるのか」ということに見る側の意識が集中してしまい、
作品の価値が分からなくなってしまう。

三番目のルドンを、北斎の妖怪と比べることなどは、
もはや主催者のセンスというか、良識を疑いたくなるレベル。

ここでは三例しか紹介しなかったが、
こんな「中学生レベルの似てる・似てない比較」が、ずっと続くのだ。

こういう不毛な比較は、両作品にとって失礼であり不幸でしかない。

お行儀よく行例をなして冒頭から鑑賞していた人たちは、
これらの展示を見てどう思ったのだろうか。

もちろん、モネやクールベやルシニョールなど、
「北斎に似ているかどうか」という文脈はまったく度外視して、
それ単体で鑑賞してすばらしい作品もいくつかはある。

もしこれから足を運ばれる方がいれば、
是非それらを楽しむことに集中していただき、
意味のない比較ショーなどに無駄な時間を費やさないでいただくよう、
畏れ多くも忠言したい。