実朝という歌人に特に思い入れがあるわけではないが、
久々に吉本隆明が読みたくなり、
ちょうど古本屋で見かけたので即購入した。
ページの中ほどに、
美術館のチケットがしおり替わりに挟まっている。
国立西洋美術館の「ゴヤ展」。
日付スタンプを見ると、「46.12.7」とある。
さすがに1946年ということはないので、昭和46年であろうが、
それでも僕が生まれるより前である。
40年以上ぶりに日の目をみたかのように、
「裸のマハ」がこちらを見つめている。
裏表紙には、前の持ち主らしき人の捺印までしてある。
古本を買うとよく思うことなのだけれど、
なぜ蔵書に押印までするような人が、
二束三文にしかならないような本を手放してしまうのか。
おそらく金に困ったからではあるまい。
もしかしたら、故人となったタイミングで家族が処分したのか・・。
だとすると、ますますこの「裸のマハ」の微笑みが何だか意味を帯びてくるような気もする。。
気軽に買った新刊本とは違って、
古書の場合には、こういう因縁めいたものが付き纏う。
だからといって読書に影響があるわけでもないのだが、
時間も空間も隔てた見ず知らずの他人と、
一冊の本を通じて知識を共有できたということが、
現代のネットやSNSでは味わえない贅沢さを、
感じさせてくれるのである。
前置きが長くなった。
吉本隆明の「実朝論」、
とはいっても、実朝の和歌について論じているのは全体の20%ほどしかない。
まず語られるのが、「実朝的なもの」の意義について。
つまり、鎌倉幕府の三代目にして、源氏最後の将軍であった実朝の、
歴史上、文化上の存在価値について考察し、
そして次に、万葉・古今・後拾遺・新古今という、
和歌の歴史における変節点の内容と意義について。
ここでは吉本の和歌論の核とでもいうべき、
「物」と「心」の詠まれ方について、
実朝という存在はそっちのけで、じっくりと論じられる。
ここまでの準備を経たうえで、
ようやく実朝の和歌へと入ってゆく。
実朝の歌といえば、反射的に「万葉風」という言葉が思いつくが、
吉本曰く、そのような解釈は間違いであり、
実朝の和歌にあるのは、強烈なニヒリズムだという。
そしてそれを理解するには、
長い前段部分が欠かせなかったというわけだ。
吉本の和歌論については、ここでも「初期歌謡論」を紹介したが、
なまじの国文学者だと、語彙や語法の説明で終始してしまうところを、
一段上から俯瞰し、
その構造から和歌の本質に迫ろうとする手法をとるわけで、
そのような見方で実朝の和歌を分析したときに、
たしかにそこには、「万葉ぶり」などというワードでは説明できない、
複雑な性質が浮かび上がってくる。