常磐津都㐂蔵さんによる「常磐津古正本による 假名手本忠臣蔵」。
いよいよ十段目となった。
この「天河屋の段」は、(歌舞伎は知らないが)人形浄瑠璃では滅多に上演されないため、
「仮名手本忠臣蔵」の中では蛇足的な扱いをされることが多い。
だが待ってほしい。
ここからは、僕の持論。
「忠臣蔵」と聞くと、「赤穂浪士による討入」を思い浮かべる人も多いかもしれないが、
もともとの「仮名手本忠臣蔵」の主題はそうではなく、
武士の掟に翻弄される家族愛の悲劇
がテーマだと思っている。
本蔵一家しかり、由良助一家しかり、そしておかるの一家もしかり。
そこにある親子・夫婦の愛情と、
それを引き裂く武士の世界の義理をさまざまな形で描く、
それが「仮名手本忠臣蔵」という作品である。
しかしながら、これを観たり聴いたりした当時の庶民は、
心の中では同情できたものの、
頭ではどうしても納得いかない部分があったに違いない。
それは、所詮自分達とは身分が違う、武士の世界が舞台であるという点だ。
(おかるの一家は武士ではないが、
婿の勘平は武士であるので、完全なる庶民の世界ではない。)
つまり観る側としては、その悲劇に涙しつつも、
所詮は武士たちの身から出た錆じゃねぇか、という思いがあったのではないか。
その庶民の捻じれた思いを解消するのが、
この「天河屋の段」なのだと僕は思う。
主人公の義平は商人だ。
武士ではないから討ち入りに参加はできないが、
「天」「河」という討ち入りの合言葉に自らの屋号を託し、
魂だけは義士として参加する。
それはまさしく、この作品を鑑賞する庶民の気持ちを代弁するものでもあったろう。
最後から二段目のこの十段目にきて、
悲劇がついに商人の世界にまで降りてくる。
これこそまさに待ってましたと、
庶民は我が事のように身震いしたのではないだろうか。
僕はここにこそ、観客の心中をも計算した、
作者の真意があったのだと思う。
さて、この段は全体としては動きに乏しく、
その意味では人形浄瑠璃で人気がないのも頷ける。
ただ後半の場面は、義平夫婦・親子のしんみりとした掛け合いとなっており、
こういう場面こそ、劇ではなく素浄瑠璃で場面を語る、
常磐津の本領が発揮されるのだと、深く実感した。
逆をいえば、常磐津の表現力があるからこそ、
文楽では人気のないこの「天河屋の段」が息を吹き返したとも言えるのであり、
作品と演奏とのたぐい稀な出会いを、
堪能できた素晴らしい会であった。