いきなり季節外れな話題になるが、
「残念無念、恨めしや~」といえば、
幽霊が登場する際の決まり台詞である。
いま問題にしたいのは、この「無念」という言葉で、
現在では上記の幽霊の台詞同様、
「無念」は専ら「残念」とほぼ同じ意味で使われているが、
よく考えてみると、
「残念」は「念」が「残」っているの対し、
「無念」は「念」が「無」いわけなのだから、
逆の意味であるのが正しいような気もする。
「無念」は元は仏教語で、
「邪念がない」、すなわち「心がすっきりしている」という意味だった。
それが次第に、おそらく「念」を「邪念」ではなく、
「一途に思うこと」の意味に捉えた結果、
「無念」=「一途に思わない」、
すなわち「思慮が足りない」「軽率だ」というネガティブな意味に変質し、
そこから「悔しい」「残念だ」という意味へと拡大していったのだろう。
これは「念」という語が、
ポジ・ネガ両方の意味を持つことからくる、
ある意味当然の結果かもしれない。
さて、これと同じことが、
古語の形容詞である「念なし」にも当てはまる。
「念なし」は平安文学には登場せず、
鎌倉以降の作品にのみ現れる点からしても、
いわゆる大和言葉ではなく、
おそらく上述の「無念」から造られた語であろう。
だから意味としては、「無念」と同じく、
1.心が晴れている状態
が原義であり、それが、
2.思慮が足りない、残念だ
というネガティブな意味へと広がっていったことも想像がつく。
実際、上記「1」の意味で用いられている事例は極めて少なく、
『新花摘』(与謝蕪村)の下記例ぐらいだろうか。
義士四十七士、ある家の館を夜討ちして、
亡君の恨みを報い、念なうこそ泉岳寺へ引き取りたり
亡君の敵討ちを果たしたので、
「心が晴れた状態で」泉岳寺へ撤収した、というわけだ。
他の事例は、上記「2」のネガティブな意味だと考えられるわけだが、
実は今回一番書きたかったのはここであって、
手元にあるすべての古語辞典の現代語訳が、
きわめてイケてないのである。
あらためて「2」の意味を考えてみよう。
ネガティブ系の「念なし」というのは、
「思いがそこにない」状態なのであって、
つまりそれは、
「思慮が足りない」「見当違いだ」「想定外だ」
というのがベースであって、
「残念だ」
という意味は、
「思慮が足りない」「見当違いだ」「想定外だ」の結果にすぎないことを、
肝に銘じなくてはならない。
ところが、ほぼすべての古語辞典が、
「念なし」の第一義として「残念だ」という現代語訳を記しているのである。
しかも、例文として挙げられているのは、
どれも同じく『古今著聞集』の、
「171.能因法師詠歌して祈雨の事並びに白河関の歌の事」の下記例である。
能因は、いたれるすきものにてありければ、
都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
とよめるを、都にありながら、この歌を出ださむこと念なしと思ひて、
人にも知られず久しく籠り居て、色をくろく日に当たりなして後、
「みちのくの方へ修行のついでによみたり」
とぞ披露し侍りける。
一応説明すると、能因法師は、
「春に都を出発したのに、白河の関に着いたらもう秋風が吹いてるよ」
という上出来な歌を詠んだのに、
実は都にいながらこの歌を披露するようなことは「念なし」なので、
誰にも会わないように家に籠ったまま、居留守を使い、
あたかも東北へ旅してきたかのように、
わざわざ日焼けまでして、この歌を披露した、
というくだりである。
この「念なし」を「残念だ」と解釈するのは、
それこそ「念なし」である。
東北に行ったかのような歌を、
都にいながら披露することを「残念だ」と思うのは、
能因ではなく、その歌を聴いた(見た)第三者であろう。
だがこの文脈での「念なし」の主語は、
明らかに能因である。
もし能因が残念だと思うのであれば、
最初からそんな歌は詠まなければ良いだけである。
しかし彼は、わざわざ一芝居打って、
自らの歌を正当化しようとした。
だからここの解釈としては、
都にいながらこの歌を披露することは「思慮が足りない」、
もっとくだけて言えば、
都にいるくせに東北に行ったかのような歌は、ちょっと違うよな・・
ということになる。
上記の例文の他に、
三省堂全訳読解古語辞典には下記が挙げられている。
一の矢射損じて、念なく思ひなして、二の矢を取りて番い
(『義経記』)
これを「残念だ」「悔しい」と訳すことは、
間違いとまでは言わないが、それでは戦場の緊迫感に欠けてしまう。
矢を外すことは「想定外」だったわけで、
「ちっ!」「しまった!」という感覚だろう。
それをそのまま辞書に載せるわけにはいかないので、
仕方なく「残念だ」になったのかもしれないが、
まぁ『古今著聞集』の例よりは、はるかにマシといったところか。
「残念だ」の次に古語辞典に書かれている現代語訳は、
「容易である」「たやすい」というものだけれど、
なぜ「念なし」にこのような現代語訳を付けようとするのか、
これも理解に苦しむ。
各辞書の例文を見てみよう。
・岩波古語辞典/小学館古語大辞典
射落とさむ事はむげにやすけれども、
これほどの剛の者を念なう失はん事なさけなかるべし
(『保元物語』)
・小学館古語大辞典/古語林
高櫓ひとつ、念なく攻め破られて焼きけり
(『太平記』)
・旺文社古語辞典/旺文社全訳古語辞典/角川必携古語辞典
櫓をば、夜昼三日が間に、念なく堀崩してけり
(『太平記』)
どの例も、「想定外だ」という解釈で片付くはずだ。
もう少し意訳するならば、
「意外にもあっさりと」ということになろうが、
それを「容易である」「たやすい」としてしまっては、
ニュアンスが全く伝わらないことはお分かりいただけると思う。
ということで、長々と書いてしまったわけだが、
最初は「念なし」の語義を説明するつもりだったのが、
いつのまにか、
古語辞典の現代語訳にはセンスがなさすぎる
という内容になってしまった。
外国語辞典ならまだしも、
古語辞典はあくまでも「日本語」の辞典である。
そして母国語を正しく理解することは、
文化を理解することでもある。
だからもっと原義を大切にした解釈を行うべきで、
ステレオタイプのヘンテコな訳は、
受験勉強は乗り切れるかもしれないが、
その奥にある文化理解への道を閉ざすことになりかねない。
新元号が発表されて、
『万葉集』が売れに売れているという。
果たしてどれだけの人が、
ここに書いたような「言葉へのアプローチ」をしているのだろうか。
そうでなければ、まことに「念なき」事態である。