この本は、いわゆる「偽書」として名高い、
『上記』『竹内文献』『東日流外三郡誌』『秀真伝』『旧事本紀』
について、
それらの内容云々よりも、
いかなる事情の下、いかなるプロセスで誕生したのか、
を解き明かすことをテーマとしている。
そもそも「偽書」に対するイメージは、
おそらく人によって様々であるし、
定義すら難しいのではないかと思うが、
この本では、偽書とは、
「作者・書名を偽った、文字を用いたあらゆる書き物」
と明確に定義する。
ただ、僕はここに、
著者によるトリックがあると思っていて、
「偽書」の対象は「あらゆる書き物」、
と定義しておきながら、
この本では、
歴史関連の「偽書」しか取り上げていないのである。
歴史というのは、
それが真実であるかは別として、
一応、暗黙の了解のうちに。
「正解」と目される事象や書物が存在するわけで、
つまりそこに軸足を置いてしまえば、
「偽書」を攻撃することはたやすいのだ。
著者によれば、
本書は偽書を糾弾することが目的ではないのだが、
しかし明らかに感情的に、
「偽書」を非難していると思われる箇所もあり、
そういう意味で、
僕は何となくフェアではないものを感じた。
歴史書以外、
たとえば『源氏物語』についてみれば、
全巻が紫式部の手になったものではないことは、
明らかなわけだから、
ある巻から先の『源氏物語』は、
この著者の定義によれば「偽書」なのである。
『源氏物語』のある部分から先を「偽書」としたうえで、
その事情やプロセスを探ることは、
それこそ本書の目的に適うと思うのだが、
そうではなく、
対象を「歴史関連の偽書」に絞っていることが、
そもそも偽書を非難するために、
優位な立場を取るためなのではないかと思えてしまい、
僕はそこが気に入らない。