第九番歌
【原歌】
花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせし間に
(小野小町)
花の色は移りにけりないたづらに
わが身世にふるながめせし間に
(小野小町)
【替へ歌】
降り止まぬ雨音を聞く日々過ぎて
残る我が身に悔いなきものを
今更説明するまでもない名歌がゆえに、
畏れ多いというかプレッシャーというか、
かなり悩んだ。
原歌をビジュアルにした場合、
降り止まない雨を眺め(=長雨)ながら、
自分の容貌の衰えを嘆いている姿、
となるので、
それをそのまま、
原歌のようなメタファーや掛詞は用いず、
ストレートに表現してみた。
ただ、原歌は専ら「視覚」に頼っているので、
替へ歌の方は「聴覚」に変更し、
「日々過ぎて」と「残る我が身」の対比を、
一層明確にした。
第十番歌
【原歌】
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬもあふ坂の関
(蝉丸)
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬもあふ坂の関
(蝉丸)
【替へ歌】
櫻花散るも散らぬも春行けば
出会い別れの酒のあとさき
蝉丸の原歌は、
パッと見、人を食ったような歌なのだが、
実は味わい深くて、
それについては以前ここに書いた。
「行く」-「帰る」、
「知る」-「知らぬ」、
という対句をリズム良く用いながら、
最後は、
「あふ(=逢ふ)坂の関」の掛詞で〆つつ、
全体として無常観というか、
出会いと別れのしみじみとした感じが、
嫌味なく表現されている。
この原歌を詠み替えるのは難しいが、
対句のリズムと、
「出会いと別れ」の情感は残しながら、
そこに現代的な季節感(春の人事異動シーズン)を
盛り込んでみた。
桜の花は散るのも散らぬのもあるが、
春が深まっていくと、
やがて出会い・別れの季節となり、
その酒の席においても、
前や後に色々なことがあって感慨深い、
ぐらいの意。
個人的には、
出会い別れの酒のあとさき
という下の句がなかなかイケてるという、
自画自賛。