第七十五番歌
契りおきしさせもが露を命にて
あはれ今年の秋もいぬめり
(藤原基俊)
【替へ歌】
また逢はむと契れる言葉を命にて
あはれ今宵の月傾けり
うーーむ、この原歌は、
説明するのもめんどくさい。
詳しくはググっていただければ終了なのだが、
敢えて意訳すると、
「あなたは私の息子を出世させてくれると約束したのに、
それも実現せずに、あぁ、今年の秋も過ぎてゆく…」
という、親(バカ)の悲哀。
ここで約束を破った人物というのは、
実は次の76番歌の作者なわけで、
因縁の人物二人を並べる定家も、
なかなかエグい。
そういった背景だとか、
「さしもが露」っていう語の意味や、
なぜこんな意味不明な語を使っているのか、
という諸事情を知って初めて、
この歌の真意を理解できるわけなのだが、
まぁなので、僕的には、
そういう理屈っぽい歌には興味がないわけですが、
でも後半の、
「あはれ今年の秋もいぬめり」
という表現は、なかなか見所がある。
実直で、キライじゃない。
替へ歌の方は、
親バカから、恋人に約束を破られた哀れな女性とし、
一晩待ったのに夜が明けちゃったじゃないの、
という歌にした。
なぜ男性ではなく、
女性なのかって?
昔は、待つのは、
専ら女性の役割だったからです。
現代ではどうなんでしょうかね。
出会い系アプリで約束したのに、
すっぽかされるのは、
男性の方が多いような気がしますけど、
さすがに月が傾くまで待つ、
というのは偏執狂のレベルなので、
それは控えましょう。
第七十六番歌
わたの原漕ぎ出でて見ればひさかたの
雲居にまがふ沖つ白波
(法性寺入道前関白太政大臣)
【替へ歌】
海原の果てを目指して漕ぐ舟の
消えゆく空に白波の立つ
こちらの原歌は、
まがうことなき名歌。
大海原に漕ぎ出してみると、
一面、海の碧と空の青。
沖に見える白波が、
まるで雲のようだ。
という、青と白だけの絵画的なパノラマを、
何の技巧も使わずに、
万葉風に詠っている。
ここまで完成度の高い歌は、
ヘタに手を加えずに、
原歌の方が、
舟の漕手の立場で詠まれているのに対し、
替へ歌は、
それを岸辺から遠く眺めている人の歌、
というように、
主体の立ち位置の若干の変更にとどめた。
沖を目指す舟が、
まるで空に消えていくようだ、
とすることで、
海と空の融合を表現してみた。