上野公園の、広小路側にある入り口の桜が、
なぜかもう咲いていて。
見た目は染井吉野っぽいが、
さすがに早いし、公園内の桜は咲いていない。
とまれ、春はすぐそこまで来ていることを感じさせる。
さて、この「出雲と大和」であるが、
僕なりのテーマはたったひとつで、
昨年の12月に出雲に旅行して以来の楽しみでもあった、
おそらく「正史」という名に隠蔽された、
ヤマトが出雲を屈服させた歴史を、
どのように語り、表現するのか
ということ。
そして結論から言えば、
まったくの期待外れであった。
しかしそれは、
開催場所がヤマト側のnational museumであること、
また何よりもこの展示が、
「日本書紀成立1300年」と銘打っていることからも、
日本書紀に書かれたヤマト側の「ご都合」以上の内容に、
踏み込むことはないだろうことを、
予想しておくべきだったかもしれない。
しかし、そんなひねくれ者的な見方は抜きにしても、
果たしてこの展示が、「出雲と大和」(「大和と出雲」ではない)というタイトルに、
どれだけふさわしいかは、疑問と言わざるを得ない。
確かに、国宝級の遺物は山ほど陳列されている。
しかし肝心要の、出雲と大和の関係については、
わずか日本書記中の「国譲り」(便利な言葉だ!!)という次元でしか、
表現されない。
これはもはや、学問とか学術というよりも、
お決まりのフレームワーク以外の何物でもないのではないか。
たとえばせめて、
『日本書紀』と『古事記』、『出雲国風土記』の記述内容と立場の違いから、
出雲と大和の関係性は十分に推測できるはずで、
そういった視点で遺跡にアプローチすることをなぜしないのか。
出雲大社の異様な巨木建築という点からしても、
出雲文化は、大陸をも含めた「日本海文化圏」として捉えるべきで、
その出雲文化圏とヤマト文化圏との対立構造は、
スサノヲ伝説や、イズモタケルvsヤマトタケルの伝承などに、
わずかながら残されているはずだ。
そういった歴史や文学に伝わる「伝承」を、
考古学や遺跡発掘の立場で如何にして証明するかが、
まさに目指すべき姿であるはずなのだが、
そもそも日本書紀に書かれた、
「国譲り」(便利な言葉だ!!)という言葉が「正」である、
という大前提でスタートしている今回の特別展においては、
残念ながら、
権威主義の下のアカデミズム以上のものを感じ取ることは、
皆無であった。