今日、新宿近辺を歩いていたときに、
とある店先に、
「珈琲屋のカフェオレ」
と書かれているのが、
目に留まった。
その表現に、
なんとなくモヤモヤしたので、
その理由を、
歩きながら考えてみたんだ。
店側としては、要するに、
「珈琲屋が提供するんだから、
おいしいカフェオレなんですよ」
ということが、
言いたいのだろうが、
でもそもそも、カフェオレって、
珈琲屋が提供するものじゃないのか?
似たような表現で、
「肉屋のステーキ」
ってのが、ある。
これは、分かる。
なぜならば、肉屋というのは、
「仕入れた肉を加工しないで売る店」であり、
その店が敢えて、
加工(料理)してステーキを提供するから、
旨いんですよ、ってことだから。
その理屈で考えると、
今回のモヤモヤは、
「珈琲屋」=「仕入れた珈琲豆を加工しないで売る店」
という意識が薄いことと、
肉をステーキに加工するほど、
珈琲豆をカフェオレにすることの、
インパクトが乏しい、
ことにあるからなのではなかろうか。
(まぁ、ステーキも肉を焼くだけなんだけどさ)
だから、例えば、
「珈琲屋のコーヒーゼリー」
なら分かるよね。
珈琲豆からコーヒーゼリーになるまでには、
それなりのプロセスが必要だから。
そうすると、
〇〇の〇〇
という表現は、
加工プロセスに、
手間がかかるほど適切である、
ということなんだろうか。
たとえば、
米屋の日本酒
八百屋のスムージー
植木屋のサラダ
ペットショップの三味線
・・・
・・・
みたいな。