「太平記(四)」(岩波文庫版)

 

第四冊は、第二十二巻~第二十九巻を収録。

序盤で、新田義貞の舎弟、脇屋義助の病没が描かれ、
楠正成の息子、正行も戦死。

高師直・師泰兄弟が権勢を振るう北朝方は、
高兄弟と対立した足利尊氏の弟・直義がついに離反し、
南朝側に降伏。

やがて高一族の命運も尽きて、一族皆殺しにされる、
というのが今回の各ヤマ場である。

あらすじはさておき、前から少し気になってはいたのだけれど、
「太平記」には寒さに対する記述が結構多いのではなかろうか。
(逆に、暑さの記述はほとんど描かれていないように思う)

たとえば、本冊収録の第二十六巻では、

——————-
年内は冴寒(ごかん)甚だしくして、
兵皆楯を墜として、手亀まる事ありぬべければ、
暫くとてさしおかれけるが、
——————-

とあるのだが、
要するにあまりにも寒くて戦どころではない、というのだ。

そもそも、南朝だろうが北朝だろうが、
当事者以外のその他大勢の武士たちには、本来どうでもいい話であって、

それがなにゆえ、日本全土を巻き込むような戦乱と成り得たのかを考えたとき、
中世には一時的な寒冷期があったという事実を思い出した。

気温の変移を具体的に説明している論文はないか、、と探してみたところ、
こちらのサイトで、過去1,000年の推定気温のグラフを掲載していて、
これがまさにビンゴ!なのだ。

過去1,000年の推定気温のグラフ

下向きの目立つスパイクが二か所あって、
僕の方で赤丸を記しておいた。

最初の方は、西暦1350年前後。
これがまさに「太平記」の舞台となっている時代だ。

後の方の気温低下は、1450年前後。
応仁の乱が起きて戦国時代に突入するのが1467年だから、
ここもぴったり。

このグラフが正しいとは限らないし、
これはあくまでも仮説だけれども、

おそらく火山の大噴火や太陽活動の低下等により、
急激に気温の低下した時期があり、
それは日本においても例外ではなかった。

気温が低下すれば、飢饉が起きる。
それがまさに、南北朝動乱と戦国の動乱が、
政治的イデオロギーを超えて、全国を巻き込んでいった原因ではなかったろうか。

同じく第二十六巻に、こんな記述もあった。

——————-
秋の霜肉を破り、暁の氷膚(はだえ)に結んで、
生くべしとも見えざりけるを、
——————-

思えば、東北の北畠軍が、わざわざ南下して参戦してきたのも、
それがためであったのかもしれない。

One thought on “「太平記(四)」(岩波文庫版)”

Comments are closed.