本書はおもに、「クラシック音楽のあるべき姿」と、
「音楽市場の現状」との差について語ったエッセイを、一冊にまとめたもの。
なんというか、いまだにこういう狭い見方で
音楽を語る人がいるというのは、驚きだった。
少なくともこの本の中で、著者が語る音楽とは、
クラシック音楽に限ったものであり、
しかもほぼすべてがオーケストラ作品のみ。
それでもって、楽器を弾くだけのやつは音楽を分かっていない、とか、
無駄な演奏会が多すぎるとか、
こういう人がいるから、「クラシック音楽=偏屈」という印象が生じてくるのもやむを得ない。
二言めには、フルトヴェングラーが~となるし、
僕はこの著者のことを全然知らないのであるが、
いわゆる音楽家としての教育をきちんと受けていないことに対する、
コンプレックスのようなものが、文章の端々に垣間見れるのは気のせいだろうか。
印象的だったのは、宇野功芳との対談で、
クラシック音楽が大衆に媚びざるを得ないことを嘆く著者に対し、
宇野が、
「モーツァルトの時代と変わっていないんですよ。
本当に音楽がわかっているかどうかあやしい貴族がお金を出してくれたおかげで、
モーツァルトやハイドンは音楽を続けることができたわけですから。」
と答える部分。
これはまさにその通りで、
いつの時代も良いものが常にメジャーであるわけではなく、
逆に、メジャーであるものが良いものというわけでもない。
良いものは大抵残る。
残らなければ、それまでのものだったということ。
この著者のように、クラシック音楽こそが音楽の最上位で、
それを世間一般は理解すべきである、という姿勢はバカバカしいものであり、
音楽の側はそのような特別扱いをされることは望んではいないし、
そうすることにメリットがあるとも思えない。
この著者を含めた、現代のクラシック音楽の在り方に不満をもつ人たちに対して、
モンテヴェルディよりもプッチーニのオペラの方が演奏される機会が何倍も多い現状について、
異議を唱えたことがありますか?と問うてみたい。
おそらく、プッチーニとテイラー・スウィフトとの比較であれば、
雄弁に語り出すに違いない。
が、実はプッチーニを時間軸の中心にすると、
テイラー・スウィフトよりもモンテヴェルディの方が、遙か遠くに隔たっているのである。
でも「クラシック音楽好き」は、
プッチーニとモンテヴェルディを「身内」として扱おうとするだろう。
所詮そのレベルなのであって、
要するに、最初から「音楽にジャンルありき」と考えるのが間違っているのであり、
ましてや、「クラシック音楽はこうでなくてはならぬ」などというのは、
音楽を理解していません、と自ら白状するようなものではないだろうか。
この本は、音楽というものを考える上での反面教師として読むべきである。