昔はシューマンという作曲家が苦手で、
例外的に好きだったピアノ協奏曲以外は、ほとんど聴かなかった。
理由としては、とにかくつかみどころがない。
甘いメロディが現れたかと思うと、急に止まったり、
あとは何と言っても、ピアノ曲が弾くのに難しすぎる!!
同年生まれのショパンとはよく比較されるけれども、
「流れるショパン」に対し、「沈み込むシューマン」とでも言おうか、
ショパンが横ならシューマンは縦、
勿論それはシューマンの音楽がポリフォニックだということもあるが、
音の密度は高いし、重いし、
ベートーヴェンとシューベルトの悪い所取りをしたかのような、
何だか愚痴が多くなってしまったが、
要は、それだけシューマンはニガテな作曲家だった。
それがここ最近、自分も歳をとったせいなのか、
段々とこの作曲家の魅力に気付き始めた(ただしピアノ曲限定)。
その理由を分析するのは、自分が老けたことを認めるようだからしたくないけれども、
端的にいえば、以前は短所だと思っていた部分が、魅力に感じるようになったのである。
中でも最近のお気に入りは、「トッカータ」(作品7)。
「スケルツォ」でも「ファンタジア」でも、あるいは「ラプソディ」でもよかったのだろうけど、
「トッカータ」と名付けたところが粋である。
実はここに、バッハを敬愛したこの作曲家の思いが込められているので、
当然ながら、曲自体もバッパっぽく、、と思うのだけれども、残念ながらそうではない。
音楽はあくまでもシューマンであって、
そこにいかに「バッハ」のエッセンスを盛り込むのか。
ここの解釈で様々な演奏が生まれてくる。
まずは、キーシン。
潔いほどに脳天気といおうか、
ただこれでは、シューマンのこの曲の面白みをまるで表現できていない。
リズムにも乗り切れていないし、何一つ褒められるところがない。
続いてリヒテル。
冒頭から重戦車の如く突進する。
こういう男性的な表現は、この曲の解釈としては間違えていないとは思うけれども、
如何せんゴツゴツしすぎで、逆にシューマンの良さを消してしまっているようで、
好きか嫌いかと言われれば、嫌い。
次は、シフラ。
技巧派のピアニストらしく、かなりのアップテンポだ。
全体的に良いのだけれど、華麗を通り過ぎて少し大袈裟かな・・。
特に調性を行き来して揺れ動く中間部を経て、最初の主題が戻ってくる部分とか、
確かにカッコイイんですけどね。
でもこの曲の魅力は、こうじゃない。
女流ピアニストも聴いてみよう。アルゲリッチ。
・・・これはもう、問題外。
これではまるでショパンで、「シューマン」も「トッカータ」もどこにもない。
そしてやはり行き着いたのは、ここだった。
ホロヴィッツとシューマンと聞くと、意外な組み合わせに思う人もいるかもしれないが、
ホロヴィッツには、ここぞというときのシューマンのレパートリーが何曲かあって、
これがまた、ショパンを弾く時とはまるで別人で、
まさにこれぞシューマン、とでも言うべき最高の演奏を聴かせてくれる。
この「トッカータ」も例外ではなく、
各声部のメロディをバランスよく響かせるし、
品と情熱に溢れた名演だと思う。
・・・と思って納得しかけていたところに、とんでもない演奏を見つけてしまった。
こんな演奏ができるのは、グールドかこのフランソワしかいないかもしれない。
シューマンがこの曲を「トッカータ」と名付けた理由は、
この演奏を聴けばすぐに分かる、まさに百聞は一聴に如かず、である。
冒頭から抑え気味のテンポで、
極力ペダルを廃し、ひとつひとつの音粒が際立つように弾く、
これぞまさに、19世紀に蘇ったバッハではなかろうか。
とまぁ、一流ピアニストの演奏に対して、
あり得ないだの問題外だのと書いてしまったが、
それも何よりこの曲の魅力のせいであって、
そしてこれだけの解釈の振れ幅を許容してくれる懐の深さも、
この曲にはある。