第二十七番歌
【原歌】
みかの原わきて流るるいづみ川
いつ見きとてか恋しかるらむ
(中納言兼輔)
みかの原わきて流るるいづみ川
いつ見きとてか恋しかるらむ
(中納言兼輔)
【替へ歌】
岸辺にて君と戯るいづみ川
いつ見し記憶とともに流るる
原歌の前半は、
まるっと序詞になっていて、
その末尾の「いづみ川」との音のつながりから、
「いつ見」を導き出している。
なので歌意としては後半の、
「一体いつ見たからといって、
あなたのことが恋しいのでしょうか」
というだけなのであるが、
31音のうち、
その60%強の17音を序詞に充てるという、
古典和歌の贅沢さというか余裕というか、
こういうところが個人的には好きだ。
さて、替へ歌の方は、
前半を無駄にするのは勿体ないので、
そのまま叙景として使わせていただき、
「いづみ川」の川岸で恋人と戯れた記憶は、
一体いつのことだったか、、
と艶感を増してみた。
第二十八番歌
【原歌】
山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思へば
(源宗于朝臣)
山里は冬ぞ寂しさまさりける
人目も草もかれぬと思へば
(源宗于朝臣)
【替へ歌】
山里は人目も草も春めきて
寂しき冬も過ぎぬと思へば
わたくしごとだが、
大学では日本語学を専攻していて、
いわゆる「『は』と『が』の違い」みたいな講義を、
年間通して受講していたのも懐かしいが、
この「山里は」というのは、
副助詞「は」にとって、
最適な用例なのではないだろうか。
つまり、この「は」には、
他とは区別してテーマを設定する役割があり、
「都とは違って、ここ山里は」
という意味になる。
冒頭でおおらかに(?)テーマを設定して、
そのあとも「かれぬ」の掛詞以外は技巧もなく、
心のままにすらすらと詠み下した原歌は、
定家セレクトにしてはかなり素直な歌で、
声に出してみても心地よい。
なので替へ歌の方も、
その心地よさを失うことのないようにし、
原歌が冬なのに対し、
設定を春にしただけで、
心のままにすらすらと詠み下してみた。
歌意も特に説明不要だと思う。