第五十一番歌

【原歌】
かくとだにえやは伊吹のさしも草
さしも知らじな燃ゆる思ひを
(藤原実方朝臣)

【替へ歌】
春来ぬと誰か伊吹のさしも草
さしも知らずに心浮きつつ

原歌は、まるでパズルのように、
技巧を散りばめた秀歌。

「伊吹」に「言ふ」を掛けて、
「さしも草」から同音の「さしも」を導き、

「思ひ」の「ひ」は「火」にかけて、
「燃ゆる」の縁語となる。

さらに前半が序詞になっており、
この手の歌では序詞(前半)部分は、
叙景に徹してほぼ意味はなく、
後半部分が実体となるのが常なのだが、

この歌では序詞部分にも意味を持たせつつ、
同音語によって後半につなげるという、
なかなかのテクニックを披露している。

原歌がここまで作り込まれていると、
替へ歌としては相当悩んだが、
まずは原歌の「恋」の要素を抜き去り、

「さしも草」(ヨモギ)に着目して、
春が来るわくわくした気分を詠み込んでみた。

歌意としては、

春が来たとは誰も言っていないようだけど、
伊吹山のさしも草をみると、
そうとは知らずに心が浮わつくね

という感じ。

第五十二番歌

【原歌】
明けぬれば暮るるものとは知りながら
なほ恨めしき朝ぼらけかな
(藤原道信朝臣)

【替へ歌】
また夜がきてすぐに逢えると知りながら
君との朝の別れぞ切なき

こちらは前歌とはうって変わり、
何の技巧もない、

朝になっての恋人との別れの未練を詠んだ、
ストレートな歌。

これには替へ歌もストレートに応えよう。

原歌の歌意とムードに忠実に、
現代風(係り結びはあるが)にしてみた。

※おそらく「現代短歌」に慣れている人には、
特に今回の替へ歌のような「密度の薄さ」には、
不満かもしれない。

けれど僕の意見はその逆で、
現代短歌は無理に密度を上げようとし、
説明的な内容を盛り込みすぎることで、

結果として、個人に特化した感覚の表出となってしまい、
本来和歌が担うはずの、
「共同感覚」を失ってしまっているのではなかろうか。

そもそも和歌は「歌う」ではないにせよ、
「詠む」ものであり、「読む」ものにあらず。

現代短歌は「読んで」納得するものであるが、
この五十二番の替へ歌のように、
口に出して心地よいものではない場合が多いのではないか。

半ば自賛を兼ねての弁解とはなるが、
敢えて記しておこう。