第五十五番歌

【原歌】
滝の音は絶えて久しくなりぬれど
名こそ流れてなほ聞こえけれ
(大納言公任)

【替へ歌】
かの人の記憶は絶えて久しけれど
名こそ手元になほ残りけれ

いきなりの言い訳にはなるが、
前回の更新から3週間以上も経ってしまった。

忙しかったことも事実だが、
今回の二首があまりに名歌であることと、
人麻呂についての評論を読んでいたこともあって、

こんなことをやっていて意味があるのか的な、
やや腑抜けたような気分を引きずってしまいまして。

ただ、気持ちを取り直して再スタート。

この原歌は、大覚寺かどこかの、
既に水がなくなってしまった滝を眺めて、

滝の音は絶えて久しいが、
その名前は今でも残ってる

ということを詠んでいるわけで、
まぁそれだけといえばそれだけなのだが、

「水は流れない」けれど、「名声は流れる」という、
ともすると嫌味になりがちな「見立て」を、
さらっと詠んでいるところに、
品があるなぁ、と思うわけです。

情景も目に浮かぶし、
水が流れてない滝なんだけど、
なぜか音だけは聴こえる気がするし、

1,000年も隔てた今でも、わずか31文字で、
想像力を掻き立ててくれるというのは、

やはり名歌中の名歌であって、
3週間も悩み込んでしまったのは、
無理もないことだと自分を慰めたい。

さて替へ歌については、
叙景歌を恋歌にするという常道を踏み、

かつての恋人との思い出は薄らいだが、
LINEの友達リストにはまだ残ってる、、、
そんな感覚。

第五十六番歌

【原歌】
あらざらむこの世のほかの思ひ出に
いまひとたびの逢ふこともがな
(和泉式部)

【替へ歌】
せめてあと一度だけでも逢えるなら
去りゆく世界も素敵だったのに

紫式部、清少納言、そしてこの和泉式部は、
(奇跡的に)ほぼ同じ時代を生きた、
女流作家なわけだけれど、

和歌の腕前という意味では、
やはり和泉式部が一歩リードしている。

ここまで百人一首を見て、
恋の歌には食傷気味ではあるが、
この歌には、恋の粘着感みたいなものが感じられず、

「あらざらむこの世」=「もういなくなろうとしているこの世」
という表現にみえる、諦観というか覚悟というか、
生死を懸けた真剣さをさらりと詠んでいて、

しかも後半が「せめて一度だけでも逢いたい」という、
飾り気のない心情吐露であるのが、
ストレートですがすがしいんだよなぁ。

ん、、、なんか替へ歌企画というよりも、
百人一首の解説コーナーみたいになってきた。

ということで、
替へ歌は、歌意の変換は行わないかわりに、
(苦手だけど)思い切って口語にしてみた。

本当は自分が去っていくのだが、
「去りゆく世界」としたところがポイントで、
原歌よりも、ほんの少し辞世要素が強くなったかな。

次は来週には更新したい。。