ピアノは高3の年まで先生について、
そこから先は受験やら何やらで気が付いたら辞めていた。

でも弾きたい欲求は抑えきれず、
大学に入って一人暮らしを始めてから、当時20万円ぐらいした電子ピアノをローンで購入。

バイトから帰宅して夜な夜な弾いていた中の一曲が、
バッハの「イタリア協奏曲」。

あの当時のいろいろな思い出が詰まっている、と言えば大袈裟だが、
愛着があることには変わりはない。

第一楽章の、力強い和音に続く上昇音型と、
それを五度上でリピートするというひらめきは、
この曲の魅力を決定づける冒頭であり、

逆にいえば、この素晴らしさに反応出来ない聴き手は、
この先どこまで聴いても(といっても15分足らずの曲だが)、
この曲の魅力は理解できないだろうと思う。

まるでアリアを聴くような第二楽章を挟んで、
最終楽章のPresto。

ここでも鍵を握るのは冒頭で、
Fのオクターブを跳躍下降して、そのままスケールで駆け上るというメロディは、
極めて単純ではあるものの、複雑であることが優れた音楽であるというわけではないことを、
見事に証明している。

実際この曲は、バッハにしては対位法的技法に乏しい曲で、
(それゆえにレッスン曲としては採用されないのかと思うが)

縦のラインよりも横のラインを重視したことにより、
この上ない軽快さが生まれているのだろう。

陳腐な喩えを用いるならば、
バッハの他の重厚な曲がフランスの赤ワインだとすれば、
この曲は文字通り、太陽を浴びたイタリアの軽快な白ワイン。

軽いといっても軽薄ではなく、
毎日飲んでも飽きることのない、そんなワインである。
(残念ながら、バッハの生まれたドイツはワインの産地としては不適格なのだが)

というわけで、この曲の演奏はいろいろ聴いてきたが、
やはりグールドの右に出る者はいない。

これほど単純な曲なのに、いや、単純な曲だからこそなのか、
弾き手の個性が如実に現れる曲で、

たとえば、上・中・下の三声のメロディが同時に進む場合、
どのパートを一番鳴らすべきかに正解はなく、

それはまさに弾き手の感覚でしかないわけだけれども、
グールドのその感覚が、僕にはしっくりくる。

だからもちろん、それとは対極にあるような、
たとえばリヒテルの演奏を好きだという人がいても、おかしくない。

要は、聴く側の感覚と弾く側の感覚とが、
いかにマッチするかが、評価の分かれ目であって、
一定レベル以上の演奏には、もはや正解などは存在しないのである。

とはいえ、
このグールドの演奏は、誰が聴いても非の打ちどころがないと思う。

ときにはピアノではない楽器を奏でているようにすら聞こえてくるから不思議である。

また弾きたくなってきた。