「陰翳礼讃」(谷崎 潤一郎)
ちょっと前から、
「デザイナー」と呼ばれる(あるいは自称している)人たちの間で、
谷崎の『陰翳礼讃』を評価することがブームになっている。

日本文化の本質は「陰翳」にある、
という内容をひたすら繰り返すエッセイなのだが、
自分にはこの作品がちっとも優れているとは思えない。

いやむしろ、谷崎潤一郎としては、
失敗作の部類に入るのではないか。

なぜ日本人が「陰翳」を好むのか、
谷崎はこのように結論付ける。

即ち、
日本人は西欧人のように肌が白くない。
その白くないことを誤魔化しかつ、
そのくすんだ肌の色をもっとも際立たせるために、
「陰翳」を好んできたのではないか、と。

さらにこんなことも書いている。

これは「デザイナー」と呼ばれる人たちが、
特に共感する部分の一つなのらしいのだが、

羊羹のあのしっとりと陰を帯びた質感は素晴らしい、
それなので多少不味い羊羹であっても、
美味く感じるものだ、と。

これでは視覚と味覚がリンクしていない、
ということを自ら暴露してしまっているだけである。

谷崎という人は、小説家としては一流だと思うが、
評論家としてはどうもイマイチだと思っている。

どうも自分の好みや習慣を一般化し、
「これこそ正しい」「これこそ文化のあるべき姿だ」などと、
正統化しすぎるきらいがある。

勿論それは、
この「ひねくれ者」作家のトラップであると考えてもいい。

そんな批判は知っての上で、
敢えてそうしているかもしれないのだ。

だから僕は谷崎の作品を読むときは、いつでも疑ってかかる。

この『陰翳礼讃』にしたって、
うわべだけ読んで称賛する気になど、全くなれない。

そもそも『陰翳礼讃』は、西洋の「陽」の文化を落としめつつ、
日本の「陰」の文化を相対的に高める、
といういささか幼稚な手法で書かれたものであり、
全く逆のことを西洋人が書こうと思えば、書けるのだ。

果たしてこれを、日本を代表する文豪が、
ホンキで書いたものなのか、どうか。

世の中の「デザイナー」と呼ばれる(あるいは自称している)方々は、
これを読むときは余程注意するに越したことはない。

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