スコセッシ監督のことは、今更語るほどのことはないのだけれども、
どうやら相当、ディカプリオ贔屓らしい。
沈没船と共に沈んだまま、
役者として浮かび上がることなく苦悶していた彼を、
「ギャング・オブ・ニューヨーク」で抜擢して以来、
「ディパーテッド」に続き、
3作目のレオ様(死語)起用である。
「ディパーテッド」が強烈に面白かったので、
再度、スコセッシ×ディカプリオならば、見ないわけにはいかない。
ということで、「シャッターアイランド」。
まず本編が始まる前に、
「この映画の結末は、絶対他人には語らないでください」
的なメッセージが表示されるのだけれども、
その書体が「丸ゴシック体」であるために、
どうも真剣味が伝わってこない。
背景が黒ベタなので、明朝体では見映えがしないとしても、
せめて「新ゴシック体」あたりで、
それなりの格調を持たせた方がいいのに・・・なんて思ってしまう自分は、
職業病だろうか。
さて内容はというと・・・
映画というのは、
本やDVDのように遡ったり巻き戻したりすることができない。
また、演劇のように演出を立体的にすることもできない。
つまり、時間的・空間的な意味において、
見る側の視点を固定させるところに、映画というものの特徴がある。
見る側の視点を固定させるというのは、
錯覚を起こさせやすい、という意味でもある。
「ユージュアル・サスペクツ」や、
前述の「ディパーテッド」みたいなサスペンスでは、
このような映画の性質を利用して、
あっ、と言いたくなる仕掛けを盛り込んでみせている。
今回の「シャッターアイランド」も、
それらの作品の延長上にあるわけで、
「ハハン、スコセッシはん、やってくれましたわ」(なぜか関西弁)、
と思わせてくれる。
これ以上語ると、ネタバレになるので、
内容については、これぐらいにしておきます。
それにしても、この映画は、もの哀しい。
そこがありきたりのエンタメ映画とは一線を画していて、
さすがは巨匠スコセッシはん(なぜか関西弁。しつこい。)、
と言いたくなる。
これはこのサイトの「music」のコーナー(?)でもそのうち触れたいのだけれども、
この映画において、挿入曲という以上に重要な役目を担っている曲が、
グスタフ・マーラーの「ピアノ四重奏」。
マーラーについては、一通り消化しきったつもりでいた自分も、
恥ずかしながら、彼にこんな室内楽があったとは、ノーマーク。
世紀末ウィーン芸術の典型ともいえる、けだるく、哀調を帯びた曲で、
映画を見終わった後も、この曲が頭から離れない。
こんな曲があったということを知っただけでも、
3,600・・・、いや1,800円の価値はあったというものだ。
スコセッシ監督が拾ってくれなければ、
ディカプリオという人の役者人生は終わっていたかもしれないけれど、
作品ごとになかなかいい味を出してきていると思うし、
案外この人は晩成する役者なのではないか、
と個人的には密かに期待してたりもする。
でもまぁとりあえず、誰か僕の頭の中のマーラーを止めてください。。。
続きは近日中に「music」で。
[…] もうひとつ大きなトリックが隠されていて、それは物語の終盤で明らかにされるのだが、 そっちの方は予想が付いた。 (一言でいえば、ディカプリオ主演の「シャッターアイランド」的なアレ) […]