2011年1月

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ここで一句

浮世亭主人、いざ出かけむ、と思ひ立ちて外に出でにけるが、 思ひのほか風の強く冷たきに困じて詠みける、 これでもか これでもかと 風の刺す 自ら評して曰く、風の刺すとは耳慣れぬ句なれども、苦しからず。 初句また次の句にて勢ひある語を続けたらむこそ、よろしけれ。

「旅する江戸絵画 ~琳派から銅版画まで」(金子 信久)

日本武尊、在原業平、 そして「源氏物語」の明石巻に見られるように、 古代の旅というものは、体制から強制された刑罰のようなものだった。 それが中世になると、西行のように、 敢えて自らをそのような境遇へと追いやる者も現れる。 そして江戸時代。 経済や街道の発達にともない、 初めて人々が「レジャーとしての旅」を楽しむようになる。 そんな思いでこの400頁弱もある本をめくっていくと、 目に飛び込んでくる1 […]

恒例のドレイクの方程式

ブログをリニューアルするたびに検証してきた、 地球外生命体の可能性を探る「ドレイクの方程式」。 では今回もチャレンジしてみよう。 N =[R*]×[fp]×[ne]×[fl]×[fi]×[fc]×[L] R*: 1年当たりに銀河系で生まれる恒星の数 これは「10」、という数値がもはや常識となっている。 おそらく、現在の銀河系内の構成分布を考えても、 まぁ妥当なところだろう。 fp : 恒星系が惑星 […]

「四季」(谷内 六郎)

谷内六郎の絵には、 必ずと言っていいほど、子供が登場する。 だから「四季」といっても、 西洋画のような、自然を客観視する類のものではなく、 むしろ自然の中に入り、 画中の子供の視線で絵を眺める仕掛けになっている。 このような仕掛けは日本においては珍しいものではなく、 中国のいわゆる「文人画」にさかんに見られる手法で、 我が国の江戸時代の文人画や、広重の紀行版画などにも、 その影響が顕著に見られる。 […]

ベートーヴェンの「チェロ・ソナタ」

こないだ「初めて買ったCDは?」という話になり、 そういえばヨーヨー・マのベートーヴェンのチェロ・ソナタだったことを思い出した。 今から20年以上前、中学1・2年の頃だった気がする。 そんなに次から次へと新しいCDが買えるものでもなかったので、 しばらくはこの1枚をイヤになるぐらい聴いていた。 今から思えば、随分シブい中学生ではある。 最近たまたまこの曲(イ長調の方)を聴く機会があり、 忘れかけて […]

イタリア牧歌的ブラームス

どちらかというと苦手な作曲家なんだけれど、 今日は何となくブラームスが聞きたくなった。 交響曲第4番。 やはりブラームスのベストはこの曲だろうか。 各楽章の個性が強いから、 別に交響曲としてまとまってとらえる必要はないと思うけれど、 個人的な好みは第3楽章。 トスカニーニがタクトを振ると、 ブラームスもイタリア牧歌に聞こえるから、不思議。 というよりも、この楽章はトスカニーニのためにあるような楽章 […]

「歌麿・写楽の仕掛け人 その名は蔦屋重三郎 展」(@サントリー美術館)

2010年最後の展覧会見学は、これになった。 歌麿・写楽の魅力を伝えるのではなく、蔦重とは何者か、 を伝えるのがテーマだったと思われるけど、 なんか中途半端。 こまごました作品の展示が多すぎたせいもあるけど、 興味深い主題を料理しきれなかった、 企画サイドの問題だろう。 メディアとしての浮世絵の魅力に、 もっと踏み込んで欲しかった。

「フォントのふしぎ ブランドのロゴはなぜ高そうに見えるのか?」(小林 章)

フォント(タイポグラフィ)というのは、 あらゆるデザイン領域の中でも、 最も美しいものの1つであると、個人的には思う。 ただ、フォントについて書かれた本は、 案外退屈なものが多い。 それは、フォントそのものを説明している場合がほとんどであり、 それがどのようなコンテキスト、 つまり景色の一部として使われているかというのが、 イマイチ伝わってこないのである。 この本は豊富な実例写真により、 そんな退 […]

「カンディンスキーと「青騎士」展」(@三菱一号館美術館)

西洋絵画史は、「何を描くか」がまずあり、 次に、「どう描くか」を追求することで進化してきた。 しかしそれも、印象派を経て、フォーヴやキュビズムに行きついたところで、 (おそらくは)限界を迎えた。 カンディンスキーには、「何を描くか」は必要ではなかった。 「どう描くか」のみを追求することで、 ”純粋な”絵画としての可能性・潜在性を引き出すことに専念できた。 「抽象派」という呼称は、正しくない。 むし […]