2011年3月

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ティタノボア・セレホネンシス

2年ほど前に、コロンビアで発見された史上最大のヘビだという。 体長約14m、体重約1t。 興味深いのが、この蛇が生息していた時代で、 今から約6,000万年前。 蛇の祖先は、ジュラ紀の後半に登場したと言われ、 恐竜などの大型爬虫類から地中(あるいは水中)に逃れて棲むうちに、 脚がなくなったといわれている。 「マイナーな爬虫類」だった蛇が、 6,500万年前の天変地異をワニやカメとともに生き延び、 […]

春立つや

今年もそろそろ桜が咲く季節になった。 震災、放射能、これからくる不況、、、 そんなことを考えるととても春めいた気分にはなれないが、 桜に罪はない。 人にかまわず、季節はやってくる。 春になると思い出す小林一茶の句がある。 春立つや 愚の上にまた 愚にかへる 和歌や俳句というのは、データベースの遊戯である。 ある句から連想される景色なり感覚を、 如何に過去のデータベースから探ってきて、 重ね合わせる […]

例の、「AERA」の件

なんか「AERA」とかいう雑誌が袋叩きにあってるらしいというんで、 色々調べてみたが、僕には???状態。 なんでこれがここまで非難を浴びるのかが、 全く理解できない。 自分の違和感がどこにあるのかを、以下にて分析。 ①そもそも日本人はマスコミを重視しすぎ 日本のマスコミのレベルは恐ろしく、低い。 これが官房長官の発表だったら大問題かもしれないが、 所詮は日本のマスコミ。 いちいち内容に一喜一憂する […]

ツイッターが大嫌い

なんです。僕は。 「ツイート」(つぶやき)という態度は、 「発言」とは異なる。 「発言」には責任がある。 でも「つぶやき」は公のものではないから、 責任を免れ得る、という甘い考えがそこにはある。 もちろん「つぶやき」という行為自体に非はないが、 猫も杓子も、企業や政治家までもが、 自分の意見を「ツイート」するというのは、 潔さというか責任感が欠如しているような気がする。 つまり、何か言っても、 「 […]

「久生十蘭短篇選」

高校に入るか入らないかの頃、 夢野久作、稲垣足穂、澁澤龍彦といった、 「ハミ出し文学」として久生十蘭も読んでいた記憶がある。 あれから20年以上経ったいま、 本屋の棚の隅にたまたま見つけたので、 懐かしさ半分で購読してしまった。 洗練された文体、行間に漂うエスプリ、程よい艶めかしさ。 この感覚は誰かの作品に似ている、と思ったらアポリネールだった。 (勿論、大学の第三外国語のフランス語で挫折してしま […]

名も無きシューベルト

シューベルトのイ長調ソナタ。 中学の頃からこの曲が好きで、 ブレンデル、ポリーニ、ケンプ・・・ 巨匠と呼ばれるピアニストの録音は何回も聞いているけれど、 特に最終楽章のロンドを理想的に弾いてくれる演奏には出会えなかった。 祈るように、深く、けれど暗すぎず。 youtubeで探していたら、再生回数7回、 ピアニスト名すら表記されていない、 隠れた名演奏が見つかった。 このぐらいの抑制が、シューベルト […]

姉妹デュオ「sky」ライブ

知人のやってる会社所属のアーティストのライブがあるというので、 神戸から梅田へ移動。 ルックス的にアイドル風なのかと思っていたら、 ところがどっこい(死語)、なかなかの歌唱力。 姉妹だからか、声色・音域も近いようで、 低音・高音のパートを二人で往き来するあたりは、 結構楽しめた。 普段はまったく縁のないジャンルの音楽なのだけれども、 やはりライブは格別。 ライブの後は、ものすごい雑踏の中を、焼き鳥 […]

「巨大翼竜は飛べたのか スケールと行動の動物学」(佐藤 克文)

看板に偽りあり。タイトルに騙された。 翼竜の話が出てくるのは最後の10分の1ほど。 あらかじめ前書きにて、 「翼竜の話が出てくるのは最後の最後だけれども、 それまでの話は大事な前提となるので、 我慢して読んでいただきたい」 とあったけれども、それも本当か疑わしい。 なぜなら、翼竜についての論旨をまとめると下記になるのだが、 ①翼長が10mを超す翼竜の体重が、 従来の説のとおり70kgだというのはお […]

山頭火の一句

型破りで個性的な俳句が多い種田山頭火に、 彼にしては控えめだが、僕の好きな一句がある。 のぼりつめて 少しくだれば 秋の寺 単に「のぼってくだる」のではなく、 「のぼりつめて」、そして「少しだけ」「くだる」。 のぼりつめることによって極限まで高まった位置エネルギーを、 ほんの少しだけ解放する。 その緊張が若干緩んだところにあったのが、 「秋の寺」だというのが、なんとも心にくい。 「秋の寺」と聞けば […]

「絵画の二十世紀~マチスからジャコメッティまで 」(前田 英樹)

西洋絵画の一つの頂点が、セザンヌだったことは間違いない。 ではセザンヌが到達した地点を、 以降の画家達は、とりわけ「写真」という技術が誕生した後に、 どのように継承していったのか。 マチス、ピカソ、ジャコメッティ、ルオーという、 「セザンヌの子供たち」の作品を通して、 西洋絵画とは何か、を浮き彫りにする。 色か線か、平面かマチエールか、オブジェかアートか。 対照的な概念を用いつつ、 (若干読みづら […]