浅草での津軽三味線の勉強会のあと、
そのまま上野まで歩く。
上野公園のような、大量に植樹された桜というのは、
どうも卑俗な感じがして、
稲荷町あたりの路地にひょっこり生えている桜の方が、
僕は好きだ。
でも僕は、花といえば、ツツジやアジサイやキクのように、
花の色と草の部分の緑とのコントラストを楽しみたいので、
ピンクというか白一色になる、満開の桜を、
それほど美しいとは思えない。
世の中に葉桜を愛でる人がいるのも、
別に桜が散りゆく惜別といった感傷的なものではなく、
色のコントラストを楽しみたいがためだろう。
そんなことを考えながら、西洋美術館の門をくぐると、
なぜかかなり空いていて、ラッキーだった。
やはりみんな、ルネサンスの天才画家よりも、
桜の方が好きなのだろうか。
日本初のラファエロ展ということだが、
目玉はやはり、この「大公の聖母」。
この絵の前で、じっと仁王立ちしながら、
この作品を傑作たらしてめている要因は何かを、考えてみた。
第一に、向かって右側の聖母の体のラインと、
赤子のラインがほぼ一致している点。
このラインよりも、赤子の体が外に出ても、内に入っても、
微妙にバランスが崩れてしまう。
赤子の頭だけを聖母の体からわずかにはみ出させることによって、
非常に洗練された印象を醸し出している。
第二に、かなり縦長に描いている点。
聖母の頭の光輪を削ってまで、極力、顔を上に配置している。
それにより、腰から下の面積が大きくなり、
ともすると、(まるでマニエリスム絵画のように)間延びした印象になってしまうのだが、
聖母と赤子の視線を、ともに下に向けることで、
重心のバランスを図っているのである。
頭の位置を、ギリギリまで上にもってくることで、
鋭角な二等辺三角形のスマートなフォルムが強調され、
バランス調整のための俯いた視線が、
何ともいえない奥ゆかしさを付与する、という副次的な効果をも生んでいる。
世に「名画」と呼ばれるものには、
必ずこのような巧妙な計算があるのだが、
その仕掛けの精緻と、それを実現させる技量の高さに、
あらためて感服せざるをえない。
ラファエロ・サンティ、享年37。
憧れの大先輩だったレオナルド没の翌年に、
まさか自分までも天に召されるとは思ってもみなかっただろう。
僕は、2年近く長生きしてることになる。