国立新美術館で「大原美術館展」を観た帰り、
せっかく六本木に来たので、
こちらの展示にも足を運ぶことにしてみた。

そもそも、六本木という街が気マズイ。

20代~30代前半にかけて、西麻布に住んで、六本木ヒルズに勤務して、
そしてこの街に散財して・・・

そういう、あまりよろしくない思い出が多いので、
なるべくこの街には近づきたくないのである。

国立新美術館は、まだ六本木の外れではあるが、
こちらは六本木ヒルズの中にある。

何となく気が引けたので、
アルコールの飲めるカフェで、軽く一杯ひっかけてから、
観に行くことにした。

とはいうものの、実はフェルメールもレンブラントも、
僕はまったく好きではないのである。

特にフェルメールという画家は、
若くして他界したことと、作品を30数点しか残さなかったことが理由で、
だいぶ神格化されている気がする。

冷静にすべての作品を眺めてみれば、まさに玉石混淆、
確かに素晴らしい作品もあるが、それほどでもない作品も多いのでは?
(我が国には熱狂的なフェルメール愛好家が多いのは知っているので、
反論がくるのは覚悟してます)

そして今回、初来日した「水差しを持つ女」は、
ズバリ、玉石混淆の「石」ではなかろうか・・・。

フェルメール「水差しを持つ女」

フェルメール信者の方、ごめんなさい。
僕にはこの絵の良さがちっとも分かりません・・・。

今回は17~18世紀オランダ絵画の展示なのだけれど、
この時代の作品群は、技巧的にすぐれたものは多いが、
どれも同工異曲で、正直退屈なものが多い。

「そのような背景で見れば」、
確かにフェルメールという画家はユニークな作品を残してはいるのだが、
この「水差しの女」は、いただけない。

ひとこと述べるとすれば、「フェルメールさん、これは何匹目のどじょう?狙いすぎです」。

同じく、本邦初公開であったレンブラントの「レジーナ」も、
別にどうということもない作品。

ただ、レンブラントという画家は、
独特の陰影をつけることで、神憑り的な作品を残していて、

今回の展示でいえば、「『マルハレータ・デ・ヘール』の肖像」は、
正確には、「Probably by Rembrandt」(レンブラントに帰属)なのだけれど、

老年の女性に寄せる年波を克明に描いているという点で、
これはいかにもレンブラントらしい傑作だと思う。

レンブラント「マルハレータ・デ・ヘール」の肖像

レンブラントとゴヤは、
自画像を含め、肖像画に対して虚飾を施さなかった画家だと思っている。

なので、この肖像画を観たあとで、
もう一度フェルメールの「水差しを持つ女」に戻ると、
やはり、甘い。
特に人物の描き方が甘い。

まぁ、おそらく大多数のブログやtwitterでは、
この「水差しの女」を絶賛しているのでしょうが、
ukiyobanareでは、そうはいきません。

相手が天才だろうが鬼才だろうが、
駄目なものは駄目と書くのです(キリッ