(その1からの続き)
化粧坂を登りきると、
そこはかつて八幡太郎義家が奥州征伐の祈願をした場所ということで、
源氏山公園と呼ばれている。
源氏嫡流である新田義貞が、ここをベースとして鎌倉を攻めたのも、
縁なきことではあるまい。
思った以上に高台になっているので、
ここから巨福呂坂の合戦の様子が見えたかもしれず、
やはり義貞はここに居て兵を動かしたであろうことは間違いないのではなかろうか。
この源氏山公園のあたりは、かつて火葬が行われていた場所だという。
同時に、どうやらいかがわしい売買が認められていた処でもあったらしい。
古くは羅生門の鬼、宇治の橋姫など、
境界となる場所には、負のエネルギーが沈殿するとされてきた。
そのエネルギーが具現化したのが、「死とエロス」であり、
江戸時代になっても、吉原と小塚原、両国広小路と回向院など、
都市が果てる場所には、「死とエロス」の匂いが濃厚に漂っていた。
後醍醐天皇の忠臣として鎌倉幕府によって捕えられ、
京から鎌倉までの長い道行の挙句に、
蔵人右少弁・日野俊基卿が処刑されたのも、この源氏山。
義貞挙兵の二年前のことだった。
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落花の雪に道紛ふ、片野の春の桜狩り、
紅葉の錦を着て帰る、嵐の山の秋の暮、
一夜を明かす程だにも、旅寝となればもの憂きに、
恩愛の契り浅からぬ・・・・
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「太平記」第二巻、作品中屈指の名文といわれる「道行」である。
「道行」とは、命を引きずる移動であって、単なる旅ではない。
「たまほこの」は「道」に係る枕詞であるが、
「たまほこの道」とは、同時に「魂ほこの道」であり、
道そのものが孕むエネルギーを、己の命になすりつけながら、
果てへと向かうのが「道行」なのであり、
俊基卿の背負い込んだその負のエネルギーが発散されるのは、
この源氏山以外ではあり得なかったのかもしれない。
明治時代になってから、俊基卿を祭神として、
この地に建てられたのが、葛原岡神社。
こじんまりとした境内は、訪れる人も少なくひっそりとしており、
正面に向かって左の奥に、斬首されたと言い伝えられている場所がある。
神として祭りながらも、
すぐその向かいに生々しい現場をとどめておくというのは、
やはりここは、死のイメージがべっとりとこびりついた地なのであろう。
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鬢の髪そそけたるを、撫で上げ給ふ程こそあれ、
太刀影後ろに光れば、頸は前に落ちけるを、
自ら頸を抱いて伏し給ふ。
(「太平記」第二巻)
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源氏山のすぐ下には「銭洗弁天」があり、
他力本願でお金を増やしたいと願う人々で、
こことは対照的な賑わいを見せていた。
「死とエロス」の向こうには、現代の「カネ」があった。
(その3へ続く)
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