秋晴れの上野公園では、「数寄フェス」(?)とやらがスタートし、
噴水の中に、寛永寺の山門(文殊楼)をモチーフとしたオブジェが登場。
台風が来たらバラバラにならないかとか、
この木材で割り箸が何膳ぐらい作れるのだろうか、などと考えながら、
正面の国立博物館へ。
平日だからゆったり鑑賞、、と思ったら甘かった!
入口には「入場まで50分待ち」の表示。
そして、行列。
この日は20時まで開館だったので大丈夫だったけれど、
通常通り17時までだったら、確実にアウトだった。
しかし50分などは、たかが3,000秒。
これから三千世界の仏様を拝みにいくのであれば、むしろちょうどいい。
さて、運慶といえば、
漱石の『夢十夜』の第六夜を思い出す。
運慶の仏像の眉や眼は、鎚と鑿とで作るのではなく、
木の中に埋まった眉や眼を、鎚と鑿とで掘り出すのだ、
という表現ほど、運慶の作品を適確に評したものはないだろう。
力強さと優しさと、
要するに人間の持つあらゆる表情に加え、
人生のその先を見たものだけが辿り着く境地における姿を、
完璧なる線と面で表現しているさまは、
まさに人の手によって作られたのではなく、
木に宿っていた魂を、仏師が掘り出したのだと言える。
さすがは漱石先生。
ちなみに、鎚(つち)を持つのは右手、
鑿(のみ)を持つのは左手、
だから左手のことを「鑿手(のみて)」と呼ぶのであり、
「酒飲み」のことを「左利き」と呼ぶのも、そこから来ている。
酒の話などはどうでもよいので、
まずは運慶の父親の康慶の作品。
・「法相六祖坐像」
とにかく表情がすごい。
特に上に挙げた三体は、「あぁ、こういう人いるよね」
と思えるぐらいリアルではないだろうか。
そしてこれが、世代を超えて、
運慶の息子たちの周辺グループによる作品になると、ここまで極まる。
・「重源上人像」
正面からみた表情は言うに及ばず、
横から見たときの、背筋のライン、頭の形、顎の角度、顔の皺、
今にも動き出しそう、などというのは陳腐な表現ではあるが、
そう言わざるを得ないぐらい真に迫っている。
そしてクライマックスは、
運慶の手になる、二体の作品。
・「無著菩薩立像・世親菩薩立像」
どちらも高さ2m近くある堂々としたお姿なのだが、
画像ではそれが伝わらぬゆえ、あえて御顔に寄ったものを掲載する。
左が無著さん、右が世親さん。
一見優しそうに見えて、けれどどこか悲しいような、
眼に埋められた水晶のせいもあり、
うっすらと涙を浮かべているようにすら見える。
こういう表情は誰にでもできるものではないし、
もちろんそれを表現することも、並大抵の芸術家では叶わない。
ここでもう一度、先の『夢十夜』での表現を思い出してもらえれば、
言わんとすることは分かっていただけるものと思う。
そしてこの二像の周囲に配置された四天王像。
作者不明とのことだが、
ここまでの表現ができるのは、もう運慶以外にはあり得ないと思えてくる。
・「多聞天像」
これも実際は2mほどなのだが、やはり迫力が伝わらない。
しかしこのポーズ、質感・量感、
これがミケランジェロよりも何百年も前に作られていたことは、
日本人として誇りにしてよいと思う。
残る三体も、優劣判じがたい傑作。
・「持国天像」「広目天像」「増長天像」
今度は、敢えて寄った画像を。
見る角度によって、全然表情のイメージが変わってくるので、
鑑賞する機会があれば、是非全方向からじっくりと見ていただきたい。
興奮状態で外に出ると、
辺りはすっかり暗く、肌寒く、
昼間見た楼閣オブジェも、
いつの間にか幻想風になっていた。