ダイアナ妃が執務室に作品を飾っていたとか、
日本美術界の権威だった黒田清輝を殴ったとか、
マッカーサーが厚木に降り立ったとき、
真っ先に「吉田博はどこにいる?」と言ったとか、
様々なエピソードに事欠かず、
もちろん画家としても一流の腕前だった吉田博であるが、
日本での知名度は、なぜかそれほど高くない。
しめしめ、これは展覧会も空いているに違いないと思ったのに、
実際はその逆で、
お盆中にもかかわらず、(この美術館にしては)それなりの混雑であったのは、
嬉しいような、悔しいような。
けれど辟易するほどの混みようではなかったので、
ひとつひとつの作品は十分に鑑賞することができた。
吉田博の優れている点は、
水彩・油彩・版画のそれぞれのジャンルにおいて、
異なる個性の秀作を残していることだろう。
一見似てはいるものの、
表現手法の面からも、この3つのジャンルはまったく別物であるし、
技術も感性も、全く異なるものを要求される。
そんな吉田博の作品の中でも、
僕的には水彩画が一番好きかもしれない。
まずは、「雨上がりの少年のいる風景」。
この独特の空気というか、
観る側と対象との間に漂うエーテルのような媒質が、
非現実世界というか、夢のような感覚を創出している気がする。
次の「堀切寺」もそう。
まるで晩年のモネのような、空気と形の一体感。
もうひとつ、「日光」。
どこか懐かしい、おとぎ話のような穢れのない純朴な世界は、
油彩では強すぎる。
これは水彩ならではの特徴であり、
それを個性として表現できているこの画家は、やはりタダ者ではない。
続いて、油彩。
水彩とは逆に、こちらはリアリズムの世界であり、
一瞬の動きや色、光の加減を、いかに描ききるか。
「雲叡深秋」。
構図といい、岩の配置と水流のバランスといい、
そして色合い、動(=水)と静(=岩)のコントラスト、
どれをとっても非の打ちどころがない。
「穂高の春」。
吉田博といえば、山の画家でもある。
特に、山肌のさまざまな表情を、
まるで生き物のように描いていて、
この「穂高の春」はかなりオーソドックスだけれども、
厳しい自然と待ちわびた春の感じがよく表れていて、
好きな作品のひとつ。
「雲海に入る日」。
山並み、空気、雲、そして夕陽のなす線が、
まるで有機物のように一体化し、
しかもダイナミック(動的)な感覚も損ねていない。
あの幻想的な空気感を表現した水彩画の画家と、
果たして同じ人物なのかと目を疑いたくなる。見事。
そして、水彩・油彩を極めた吉田が、
最後に辿り着いたのが、木版画だった。
江戸伝来の浮世絵を否定しつつも、
学ぶべきところは学び、
そして旧来の版画が実現しえなかった、
絵画的表現手法を大胆に採り入れた。
傑作が多すぎて、どれを紹介してよいか迷うが、
まずは、「帆船 朝」。
同じ構図で、「午前」「午後」「夕」「霧」というのもあるのだけれど、
この「朝」が一番よい。
版画なのに眩しくなるような光の表現と、
それを透かす帆の感じが、心地よい。
次は、「神楽坂通 雨後の夜」。
題材は浮世絵風だが、
例えば、雨に濡れた地面などは、
江戸の浮世絵にはなかった表現の仕方であり、まさに絵画的といってよい。
暗い中に浮かび上がる灯りの感じも、
雨後の夜の空気を上手く表現していて、
雨を直接描くことなく、雨を伝えてくれる。
広重に見せてあげたい一枚。
こんな作品もある。「スフィンクス」。
スフィンクスを題材にしているということがまず珍しいのだが、
その岩肌の表現が、かなり大胆だ。
北斎が見たら大喜びするだろうな、これ。
砂漠の強烈な日差しを浴びて、
複雑な色合いを見せるスフィンクスの横顔と、
前景のキャラバンの対比が面白い。
「朝日 富士拾景」。
正統的な作品であるが、
横幅70cmの版画というのは、もはや離れ業に近い。
そしてよく見ると、
後ろの富士山と、手前の木々や池の表現の仕方が、
まるで異なることに気付く。
おそらく刷り方における何らかの工夫をしているのだろうが、
富士山をすっきりと目立たせることに、見事に成功している。
「渓流」。
一見して、これが版画なの?と思ってしまうぐらい、
とにかく水の表現が凄まじい。
解説によれば、水の流れは吉田自身が彫ったのだという。
版画ではないが、この水流の表現には琳派の遺伝子が垣間見える。
そして最後は、「中里之雪」。
最初これを観たとき、とにかく触りたかった。
これは誇張でもなんでもなく、
触ったら、そのまま指に雪が付いてきそうな気がしたからだ。
水墨画のような枯淡の世界であるが、
版画でここまでの雪の質感を出せるとは。
ということで、かなり満足度の高い展覧会であった。
日本でも、もっと吉田博の作品が観られるようになることを、切に願う。