小澤洋介 無伴奏チェロリサイタル

 

前回(もう1年前か!)の音響的教訓があったので、
今回は一番前の席を陣取った。

ここなら、指や弓の動きはもちろん、
腕や体の使い方まで全部分かるze、シメシメ(死語)・・。

1.レーガー「無伴奏チェロ組曲第3番」
最近、レーガーの曲を聴くことが多かったので、ジャストタイミング。

今回、小澤先生自身で書いたプログラムによれば、
レーガーは祖国ドイツでもそれほど演奏される機会はないとのことで、

まぁ確かに、悪くいえば素人っぽいというか、
でも、作曲家を大雑把に、
「旋律が短い派」と「旋律が長い派」に分けるとすれば、

レーガーは明らかに後者に属しており、
ということはつまり、親しみやすい。

個人的には2番が好きなのだけれど、
この3番にしたって、終曲の変奏曲とかは聴きごたえあるし、

「貴重な」無伴奏チェロのレパートリーとして、
もっとメジャーになってもよいと思うのだけれども。

スケルツォは、聴いてる方がハラハラするぐらい大変そうだった。

2.バッハ「無伴奏チェロ組曲第4番」
今回のプログラムでは、これが一番不満だったかな。
良く言えば、「明るいバッハ」。

悪く言えば、単調、ただ弾いただけという感じ。

特にサラバンドは、もう少し粘っこくてもよいと思うし、
終曲(ジーグなのかブーレなのか、いつも分からなくなる)は、
もっとアクセントが欲しい。

そう、音楽はやはりアクセントが重要で、
音楽と言語の親和性という意味では、

アクセントに乏しい言語を操る日本人は、
やはり音楽的なアクセントにも弱いと言わざるをえない。

といっても、この曲の場合は、
自分があまりにも、巨匠たちの名盤を聴きすぎたゆえの、
辛口批評なのかもしれないが・・・。

3.コダーイ「無伴奏チェロソナタ」
これを聴かずして、チェロを語ることなかれ、
とでも言うべき、「ザ・無伴奏チェロ」の名曲。

この曲は、チェロという楽器の限界を引き出しているとともに、
おそらく、弦楽器ひとつで表現できる音楽の最高峰であると、
僕は思っている。

技術的に超難曲であり、かつ音楽性と抒情性をも失っていない。

チェロを弾く人からすれば、
バッハの6曲と、コダーイのこの曲を弾くことが、
最終地点であることは間違いないであろう。
(たぶん僕のようなニワカには、どちらも一生弾くことができないだろうが。)

明らかに前の2曲とは、気合の入れ方が違った。

そもそも、レーガーは譜面を見ながらの演奏だったし(←ここ重要)、
バッハはおそらく、小澤先生のキャリアの中で何百回と弾いているがゆえの、
ちょっとした緊張感のなさを否定できなかった。

でも、このコダーイは違った。

特に、長大なアダージョにおける表現の豊かさは、まさに、

「con grand’ espressione」

をそのまま形にしたかのような、熱い演奏だったと思う。

この曲の白眉は、やはりこの第二楽章だろう。

さて、ここから先は蛇足であり、
書くことが失礼かもしれないのだが敢えて書くと、

たとえば日本人ピアニストが、
だいぶ世界レベルに近づき始めたのに比べると、
弦楽器の世界、特にチェロなんかでは、
まだまだ世界のレベルには遠い気がしてしまうのである。

今回、バッハを聴いてそれを痛感した。

もちろん、小澤先生も上手いには上手いのだが、
なんだろう、僕が幼少から聴いてきた「あの」バッハの感覚とは随分遠いのである。

それを解釈の違いだと言ってしまえばそれまでなのだが、
話を楽器製造という視点に置き換えた場合に、

ヤマハのピアノは世界に通用するが、弦楽器はさっぱりである、
という状況とも合致すると思うし、

あと思うのは、
弦楽器というのは、演奏者の体自体が共鳴体になるがゆえに、
西洋人>(越えられぬ壁)>日本人
という図式が、どうしても出来上がってしまうのではないかということ。

特にチェロは、弾く者の内臓にダイレクトに音が伝わるので、
西洋人と日本人とでは、絶対に音の処理が異なるはずである。
(それは逆の意味で、三味線も同様)

とまぁ、いろいろ考えさせられた土曜の夜で、
このあと飲みにいく予定をキャンセルして、
家に帰ってこれを書いてみた。