第六十九番歌
嵐吹く三室の山のもみぢ葉は
竜田の川の錦なりけり
(能因法師)
【替へ歌】
三室山風の行方を訪ぬれば
錦を纏ふ竜田川かな
業平による17番歌、
ちはやぶる神代も聞かず竜田川
からくれなゐに水くくるとは
を彷彿とさせる原歌であるが、
能因法師には、
もっと良い歌があるのだけれど、
なぜこれを定家は選んだのか、
理解に苦しむ。
紅葉を錦に見立てるのはもちろん、
「~は~だったよ」という形式も、
陳腐すぎるわけで、
敢えて褒めるならば、
その陳腐な「型」を守りつつも、
スラスラと抵抗感なく、
詠んでいるといったあたりなのかな。
ということで、
替へ歌も原歌に完全服従。
風の吹く先を目で追ってみたら、
そこには錦をまとった竜田川があった、
という、
時間的ズレみたいなものを、
少し強調してみた。
ただ、原歌同様、
あまりおもしろくないね。
スラスラとした詠み口は、
自画自賛したいけど。
第七十番歌
寂しさに宿を立ち出でてながむれば
いづくも同じ秋の夕暮
(良暹法師)
【替へ歌】
わが名呼ぶ声聞くままに振り向けば
いつもと同じ、秋の夕暮
いわゆる「三夕の歌」を持ち出すまでもなく、
「秋の夕暮」というフレーズで終わらせれば、
和歌はそれなりの体裁を保てる、
と中世から言われていたわけで、
その「ハシリ」となったのが、
おそらくこの歌。
寂しさに耐えられなくなって、
人里離れた庵を、
思わず飛び出してしまう、
そしたら目の前には、
秋の光景が拡がっていたわけだけれど、
それを「いづくも同じ」と表現するあたり、
何とも人間味があるというか、物語風というか、
個人的には、
百人一首の中で好きな歌の、
ベスト5には入る。
替へ歌はお粗末で恥ずかしい限りだが、
よく名前を呼ばれた気がして、
振り向くこととかないですか?
お、誰かに呼ばれたかな、
と思って振り向いてみたものの、
そこには誰もいなくて、
ただいつも通りの秋の光景が、、、
といった感じ。
「いづくも同じ」を、
「いつもと同じ」にして、
ちょっと抵抗してみました。